・・・その上に大地震があり大火事がある。無常迅速は実にわが国の風土の特徴であるように私には思われる。 日本人の宗教や哲学の奥底には必ずこの自然的制約が深い根を張っている。そうして俳諧の華実もまた実にここから生まれて来るような気がする。無常迅速・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・同時に擬古派の歌舞伎座において、大薩摩を聞く事を喜ぶのは、古きものの中にも知らず知らず浸み込んだ新しい病毒に、遠からず古きもの全体が腐って倒れてしまいそうな、その遣瀬ない無常の真理を悟り得るがためである。思えばかえって不思議にも、今日という・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 何しろあれだけ大きな建物がなくなってしまった事とて境内は荒野のように広々として重苦しい夕風は真実無常を誘う風の如く処を得顔に勢づいて吹き廻っているように思われた。今までは本堂に遮られて見えなかった裏手の墳墓が黒焦げになったまま立ってい・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ただ血の漲ぎらない両頬の蒼褪めた色が、冷たそうな無常の感じを余の胸に刻んだだけである。 余が最後に生きた池辺君を見たのは、その母堂の葬儀の日であった。柩の門を出ようとする間際に駈けつけた余が、門側に佇んで、葬列の通過を待つべく余儀なくさ・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・別離ということについて、吉里が深く人生の無常を感じた今、善吉の口からその言葉の繰り返されたのは、妙に胸を刺されるような心持がした。 吉里は善吉の盃を受け、しばらく考えていたが、やがて快く飲み乾し、「善さん、御返杯ですよ」と、善吉へ猪口を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ されば夫婦家に居るは必ずしも常に快楽のみに浴すべきものにあらず、苦楽相平均して幸いに余楽を楽しむものなれども、栄枯無常の人間世界に居れば、不幸にしてただ苦労にのみ苦しむこともあるべき約束なりと覚悟を定めて、さて一夫多妻、一婦多男は、果・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・国内の社会事情の矛盾から、文学上には、一種の無常観、俳句において代表されている「さび」の感覚などのうちに退嬰し、徳川末期に到っては身分制に属しながら実力はそれを凌駕している町人階級の文学としてそこでだけは武士の力がものをいわぬ遊里、花柳界遊・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・ボーン悩と鳴る遠寺の鐘、それも無常の兆かと思われる。 人に見られて、物思いに沈んでいることを悟られまいと思って、それから忍藻は手近にある古今集を取っていい加減なところを開き、それへ向って字をば読まずに、いよいよ胸の中に物思いの虫をやしな・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・すなわち自然の美とは、「無常無情の自然物と人間の心とが合致して生まれた暖かき子供」である。人は自然において美を感ずる瞬間に、すでに自ら「製作」しているのである。この考えを押し進めて行けば、同じ事が人間自身の肉体についても言えるであろう。肉体・・・ 和辻哲郎 「『劉生画集及芸術観』について」
出典:青空文庫