・・・その犬が、私を特に好んで、尾を振って親愛の情を表明してくるに及んでは、狼狽とも、無念とも、なんとも、いいようがない。あまりに犬の猛獣性を畏敬し、買いかぶり節度もなく媚笑を撒きちらして歩いたゆえ、犬は、かえって知己を得たものと誤解し、私を組み・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・その逢うときの容貌は弱く、言は鄙と言われ、パウロは無念そうに、(我は何事にも、かの大使徒たちに劣らずと思う。われ言葉に拙けれども知識には然らず、凡ての事にて全く之を汝らに顕せり。われ汝らを高うせんために自己を卑と反問している。二、横暴な・・・ 太宰治 「パウロの混乱」
・・・君はそのメンコを調べてみて、その男の子の無念と、淋しさを思いやって、しじゅう、そのことが頭から離れず、その後は、メンコ屋の店のまえをとおるときには、必ずちょっと店先を覗いて、もしや、東の横綱が無いかしら、と思わず懸命に捜してみるようになって・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・人を殺した恐怖など、その無念の情にくらべると、もののかずでないのは、こいをしている若者の場合、きわめて当然の事なのである。 烈しく動揺して、一歩、扉口のほうに向って踏み出した時、高円寺発車。すっと扉が閉じられる。 ジャンパーのポケッ・・・ 太宰治 「犯人」
・・・それに気附かず、作者は、汗水流し、妻子を犠牲にしてまで、そのような読者たちに奉仕しているのではあるまいか、と思えば、泣くにも泣けないほどの残念無念の情が胸にこみ上げて来るのだ。「とにかく、その雑誌は、ひっこめてくれ。ひっこめないと、ぶん・・・ 太宰治 「眉山」
・・・あるいは特にそういう人たちはこの時間を利用して庭にでもおり、高い大空を仰いで白雲でもながめながら無念無想の数分間を過ごす事ができたらその効果は肉体的にも精神的にも意外に大きなものになるかもしれない。私はむしろ大多数の人のために何よりも一番に・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・ 吾人が事象に対した時に、吾人の感官が刺戟されても、無念無想の渾沌たる状態においては自分もなければ世界もない。そのような状態が分裂して、能知者と所知者が出来る事によって、始めて認識が成立し始める。そこから色々な観念が生れ、観念は更に分裂・・・ 寺田寅彦 「文学の中の科学的要素」
・・・もっとも成績については何かことのほか不出来のためそんな結果を招いたのか、当時自分にもわからなかったが、いくら三年の時受験したにせよ、失敗してみるとさすがにくやしい、無念である。そこで平生はあまり勉強しなかった自分もいささかかんしゃくを起こし・・・ 寺田寅彦 「わが中学時代の勉強法」
・・・自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず尖ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。唇が顫えた。 短刀を鞘へ収めて右脇へ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ ある人咸陽宮の釘かくしなりとて持てるを蕪村は誹りて「なかなかに咸陽宮の釘隠しと云わずばめでたきものなるを無念のことにおぼゆ」といえり。蕪村の俗人ならぬこと知るべし。蕪村かつて大高源吾より伝わる高麗の茶碗というをもらいたるを、それも咸陽・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫