・・・地震で焼けた向島の梵雲庵は即ち椿岳の旧廬であるが、玄関の額も聯も自製なら、前栽の小笹の中へ板碑や塔婆を無造作に排置したのもまた椿岳独特の工風であった。この小房の縁に踞して前栽に対する時は誰でも一種特異の気分が湧く。就中椿岳が常住起居した四畳・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・払戻の窓口へさし込んだ手へ、無造作に札を載せられた時の快感は、はじめて想いを遂げた一代の肌よりもスリルがあり、その馬を教えてくれた作家にふと女心めいた頼もしさを感じながら、寺田はにわかにやみついて行った。 小心な男ほど羽目を外した溺れ方・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・紙の上の十円札は棒でかき寄せられ、京都へ張っていた男へ無造作に掴んだ五枚の十円札が渡される。「――さアないか。インチキなしだ。大阪があいた。大阪があいた」 誰も大阪へ張る者がない。ふと張ってみようという気になった。ズボンのポケットか・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 寒い街を歩いて夕刊売りの娘を見た。無造作な髪、嵐にあがる前髪の下の美しい額。だが自分から銅貨を受取ったときの彼女の悲しそうな目なざしは何だろう。道々いろいろなことが考えられる。理想的社会の建設――こうしたことまで思い及ぼされるようでな・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・、有益でもあり、かつ興味もあるというような、気のきいた事を提出致しまして、そして皆さんの思召に酬いる、というような巧なる事はうまく出来ませぬので、已むを得ず自分の方の圃のものをば、取り繕いもしませんで無造作に持出しまして、そして御免を蒙ると・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・「そんなにお前たちは無造作に考えているのか。」と、私はそこにある籐椅子を引きよせて、話の仲間にはいった。「とうさんぐらいの年齢になってごらん、家というものはそうむやみに動かせるものでもないに。」「どこかにいい家はないかなあ。」 ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ と直次は姉を前に置いて、熊吉にその日の出来事を話して無造作に笑った。そこへおさだは台所の方から手料理の皿に盛ったのを運んで来た。 おげんはおさだに、「なあし、おさださん――喧嘩でも何でもないで。おさださんとはもうこの通り仲直り・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・実に無造作に、私はあの旅に上って行った。その無造作は、自分の書斎を外国の町に移すぐらいの考えでいた。全く知らない土地に身を置いて見ると、とかく旅の心は落ちつかず、思うように筆も取れない。著作をしても旅を続けられるつもりの私は、かねての約束も・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・問したときに、教師がそれをいいかげんに答えるのはいうまでもなく悪いが、これを知っている場合に、何でもないことだ、アルコールの燃える際に生ずる水蒸気がビーカーにあたって露になって着くのだといって、あまり無造作に片づけてしまうのは面白くないと思・・・ 寺田寅彦 「研究的態度の養成」
・・・突飛な題材を無造作な不細工な描き方で画いているようではあるが、第一構図や意匠の独創的な事は別問題としても今ここに論じているような「不協和の融和」という事が非常にうまく行われているので、そこに名状の出来ぬ深みが生じ「内容」が出来ているのである・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
出典:青空文庫