・・・蔵を殺害して、その肉体の一部を斬り取って逃亡したという稀代の妖婦の情痴事件が世をさわがせたのは、たしか昭和十一年五月であったが、丁度その頃私はカフェ美人座の照井静子という女に、二十四歳の年少多感の胸を焦がしていた。 美人座は戎橋の北東詰・・・ 織田作之助 「世相」
・・・因みに、私が当時ひそかに胸を焦がしていた少女に、彼等煙草生徒も眼をつけていたのだ。 高等学校へはいっても、暫らくは吸わなかったが、一年生の終り頃、私はある女の口の煙草のにおいに魅力を感じた。私はその女と会わないでいる時はせめて煙草のにお・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・の火のついたような声を聴いていると、しぜんに心がすんでくると言い言いしていたが、そんなむずかしいことは知らず、登勢は泣声が耳にはいると、ただわけもなく惹きつけられて、ちょうどあの黙々とした無心に身体を焦がしつづけている螢の火にじっと見入って・・・ 織田作之助 「螢」
・・・彼は細川が梅子に人知れず思を焦がしていることを観破ていたのである。「私には解せんなア」と校長は嘆息を吐いた。「解せるじゃアないか、大津が黒田のお玉さんと結婚しただろう、富岡先生少し当が外れたのサ、其処で宜しい此処にもその積があるとお・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・夏刈って、うず高く積重ねておいた乾草が焼かれて、炎が夕ぐれの空を赤々と焦がしていた。その余映は森にまで達して彼の行く道を明るくした。 家が焼ける火を見ると子供達はぶるぶる顫えた。「あれ……父うちゃんどうなるの……」「なんでもない、な・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・放心について 森羅万象の美に切りまくられ踏みつけられ、舌を焼いたり、胸を焦がしたり、男ひとり、よろめきつつも、或る夜ふと、かすかにひかる一条の路を見つけた! と思い込んで、はね起きる。走る。ひた走りに走る。一瞬間のできごとで・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔ったようになってその火は燃えているのでした。「あれは何の火だろう。あんな・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
出典:青空文庫