・・・新蔵はじりじり業の煮えるのをこらえながら、「欲しいからこそ、見て貰うんです。さもなけりゃ、誰がこんな――」と、柄にもない鉄火な事を云って、こちらも負けずに鼻で笑いました。けれども婆は自若として、まるで蝙蝠の翼のように、耳へ当てた片手を動かし・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・……称名の中から、じりじりと脂肪の煮える響がして、腥いのが、むらむらと来た。 この臭気が、偶と、あの黒表紙に肖然だと思った。 とそれならぬ、姉様が、山賊の手に松葉燻しの、乱るる、揺めく、黒髪までが目前にちらつく。 織次は激くいっ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ ややしばらく、魂が遠くなったように、静としていると思うと、襦袢の緋が颯と冴えて、揺れて、靡いて、蝋に紅い影が透って、口惜いか、悲いか、可哀なんだか、ちらちらと白露を散らして泣く、そら、とろとろと煮えるんだね。嗅ぐさ、お前さん、べろべろ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・……(寒い風だよ、ちょぼ一風と田越村一番の若衆が、泣声を立てる、大根の煮える、富士おろし、西北風の烈しい夕暮に、いそがしいのと、寒いのに、向うみずに、がたりと、門の戸をしめた勢で、軒に釣った鳥籠をぐゎたり、バタンと撥返した。アッと思うと、中・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 極暑の、旱というのに、たといいかなる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、――諺に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大盥に満々と水を湛え、蝋燭に灯を点じたのをその中に立てて目塗をすると、壁を透して煙が裡へ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・のあったおりに、たしか「そら豆の煮えるまで」に出て来る役者から見て来たらしい身ぶり、手まねが始まった。次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。「オイ、とうさんが見てるよ。」 と言って、三郎はそこへ笑いこ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・涙が煮える。けれども私は、辛抱した。お金がないのである。けさ、トイレットにて、真剣にしらべてみたら、十円紙幣が二枚に五円紙幣が一枚、それから小銭が二、三円。一夜で六、七十円も使ったことになるが、どこでどう使ったのか、かいもく見当つかず、これ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・昔の武士の中の変人達が酷暑の時候にドテラを着込んで火鉢を囲んで寒い寒いと云ったという話があるが、暑中に烈火の前に立って油の煮えるのを見るのは実は案外に爽快なものである。 暑い時に風呂に行って背中から熱い湯を浴びると、やはり「涼しい」とか・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・炎天のもとに煮えるような深い泥を踏み分けては、よくこの蒲の穂を取りに行ったものである。それからというものは、今日までほとんど四十年の間ついぞ再びこの蒲を見た記憶がなかったように思うのである。 この蒲の穂を二三十本ぐらい一束ねにしたのをそ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ 八 桶には豆腐の煮える音がして盛んに湯気が発ッている。能代の膳には、徳利が袴をはいて、児戯みたいな香味の皿と、木皿に散蓮華が添えて置いてあッて、猪口の黄金水には、桜花の弁が二枚散ッた画と、端に吉里と仮名で書いたのが・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫