・・・ なんだか非常に羨ましいような気がして同時に今まで出なかった涙が急に眼頭を熱くするのを感じた。 五 八十三で亡くなった母の葬儀も済んで後に母の居間の押入を片付けていたら、古いボールの菓子箱がいくつか積み重・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 私は熱くなってこう答えた。「じゃあ何かい。あの女が誰のためにあんな目にあったのか知りたいのかい。知りたきゃ教えてやってもいいよ。そりゃ金持ちと云う奴さ。分ったかい」 蛞蝓はそう云って憐れむような眼で私を見た。「どうだい。も・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 二等車では、誰も坐っていない座席に向って、煽風機が熱くなって唸っていた。 彼は煽風機の風下に腰を下した。空気と座席とが、そこには十分にあった。 焙られるような苦熱からは解放されたが、見当のつかない小僧は、彼に大きな衝撃を与えた・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・しかし、火がついて、下からそろそろ熱くなって来ると、ようやく、これは一大事というように騒ぎはじめるのである。しかし、もう追っつかない。そういうところが、どうも自分に似たところがあるので、私はドンコが好きで、棲家をも「鈍魚庵」とした次第である・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・僕は頭が熱くて痛くなった。ああ北海道、雑嚢を下げてマントをぐるぐる捲いて肩にかけて津軽海峡をみんなと船で渡ったらどんなに嬉しいだろう。五月十日 今日もだめだ。五月十一日 日曜 曇 午前は母や祖母といっしょに田打ち・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・咽喉へはいると急に熱くなるんだ。ああ、いい気分だ。もう一杯下さいませんか。」「はいはい。こちらが一ぺんすんでからさしあげます。」「こっちへも早く下さい。」「はいはい。お声の順にさしあげます。さあ、これはあなた。」「いやありが・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ わたしはこの言葉をきいて、体が熱くなるような感じにうたれた。革命まではロシアの工場でも、日本の工場と同じようなひどい条件で女が搾られていたのである。 ドン国立煙草工場には自慢の托児所があり二百七十人ぐらいの子供の世話をやいている。・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・ 顔が熱くなって唇がブルブルして居る。 S子の顔を見るまでは落つけないのだから―― 今ベルがなるか今ベルがなるかと聞耳をたてて居る。 ジジー! ベルがなる。 私は玄関に飛び出す。 見るとS子ばかりじゃあなく、T子もA・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・「饂飩がまだあるなら、一杯熱くして寧国寺さんに上げないか。お寒いだろうから。」 戸川は自分の手を翳していた火鉢を、寧国寺さんの前へ押し遣った。 寧国寺さんはほとんど無間断に微笑を湛えている、痩せた顔を主人の方に向けて、こんな話を・・・ 森鴎外 「独身」
・・・ただいとうにはゆるは彼方の親切にて、ふた親のゆるしし交際の表、かいな借さるることもあれど、ただ二人になりたるときは、家も園もゆくかたものういぶせく覚えて、こころともなく太き息せられても、かしら熱くなるまで忍びがとうなりぬ。なにゆえと問いたも・・・ 森鴎外 「文づかい」
出典:青空文庫