・・・しかしいくら思返して見ても、その時分鐘の音に耳をすませて、物思いに耽ったような記憶がない。十年前には鐘の音に耳を澄ますほど、老込んでしまわなかった故でもあろう。 然るに震災の後、いつからともなく鐘の音は、むかし覚えたことのない響を伝えて・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・ そして、自分や、周囲のものが日から日へと過している無駄な生涯を顧みて、肥った獣のように呻き、深い物思いと当途のない憤りに沈んで荒っぽく怒鳴るのであった。「そうだ! お前には智慧があるんだ。こんなところは出て暮せ!」「豚の中にい・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・そして、肥った獣のようにうめいて深い物思いに沈み、荒っぽくどなった。「そうだ! お前には智慧があるんだ。こんなところは出て暮せ」ゴーリキイは、生涯の中に出会った四人の人生についての教師の一人として、このスムールイをあげている。スムールイ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの人及び芸術」
・・・ダーリヤ・パヴロヴナは、ぼんやりした一種の物思いに捕われた。それは悲しみではないし、苦しみとまで鋭いものでもない。何か広い、果しない、目的の定まらないものの中に混りこみ、生きている自分達――そんな感じだ。いろいろな場所で種々な習慣言葉を持つ・・・ 宮本百合子 「街」
・・・ そして、自分の経て来た無駄な生涯を顧みて、肥った獣のように呻き、深い物思いに沈んで荒っぽく怒鳴るのであった。「そうだ! お前には智慧があるんだ。こんなところは出て暮せ!」 冬が来て、ヴォルガ河が凍り、汽船の航行がとまると、ゴー・・・ 宮本百合子 「逝けるマクシム・ゴーリキイ」
・・・ 二人とも何やら浮かぬ顔色で今までの談話が途切れたような体であッたが、しばらくして老女はきッと思いついた体で傍の匕首を手に取り上げ、「忍藻、和女の物思いも道理じゃが……この母とていとう心にはかかるが……さりとて、こやそのように、忍藻・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・或るものはその日の祈りをするために跪き、或るものは手紙を書き、或るものは物思いに沈み込み、また、ときとしては或るものは、盛装をこらして火の消えた廊下の真中にぼんやりと立っていた。恐らく彼女らにはその最も好む美しき衣物を着る時間が、眠るとき以・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫