・・・ 保吉は物憂い三十分の後、やっとあの避暑地の停車場へ降りた。プラットフォオムには少し前に着いた下り列車も止っている。彼は人ごみに交りながら、ふとその汽車を降りる人を眺めた。すると――意外にもお嬢さんだった。保吉は前にも書いたように、午後・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・私は先達ても今日の通り、唯一色の黒の中に懶い光を放っている、大きな真珠のネクタイピンを、子爵その人の心のように眺めたと云う記憶があった。……「どうです、この銅版画は。築地居留地の図――ですか。図どりが中々巧妙じゃありませんか。その上明暗・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・お蓮は自堕落な立て膝をしたなり、いつもただぼんやりと、せわしなそうな牧野の帰り仕度へ、懶い流し眼を送っていた。「おい、羽織をとってくれ。」 牧野は夜中のランプの光に、脂の浮いた顔を照させながら、もどかしそうな声を出す事もあった。・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・私は漸くほっとした心もちになって、巻煙草に火をつけながら、始めて懶い睚をあげて、前の席に腰を下していた小娘の顔を一瞥した。 それは油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結って、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ともかく私たちは幸に怪我もなく、二日の物憂い旅の後に晩秋の東京に着いた。 今までいた処とちがって、東京には沢山の親類や兄弟がいて、私たちの為めに深い同情を寄せてくれた。それは私にどれ程の力だったろう。お前たちの母上は程なくK海岸にささや・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・そして、そこは、がけの南に面していまして、日がよく当たりましたから、花は物憂いのどかな日を送ることができましたが、なにしろ、がけの中ほどで、ことにほかには美しい花も咲いていませんでしたから、みつばちもやってこず、ちょうもたずねてきてくれませ・・・ 小川未明 「小さな赤い花」
・・・そして、ブルジョア作家は、なおこれ等の事実から、いかに、人生というものの物憂いか、また、はかないものであるかを、また人間の醜いものであるかを語ろうと欲するのである。言い換えれば、やはりこれ等の華かな事実を通じて、人生の暗黒な真相を考えようと・・・ 小川未明 「何を作品に求むべきか」
・・・波は、昔からの、物憂い調子で、浜に寄せては返していました。 姉は、あてもなくそれらの景色をながめ、悲しみに沈みながら、弟をさがしていました。けれど、弟は、どこへいったのかわかりませんでした。 一日、この港に外国から一そうの船が入って・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・ストーヴに暖められ、ピアノトリオに浮き立って、グラスが鳴り、流眄が光り、笑顔が湧き立っているレストランの天井には、物憂い冬の蠅が幾匹も舞っていた。所在なくそんなものまで見ているのだった。「何をしに自分は来たのだ」 街へ出ると吹き通る・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・けれども、余り気分が冴えないで若し其儘進んだら如何那に物懶いものが出来上るか分らないと思ったので、其処まで書いてペンを擱いて仕舞いました。そして暫くの間或雑誌に出て居る、日露戦争当時 Peace Maker として働いたルーズベルトを中心と・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
出典:青空文庫