・・・私は先達ても今日の通り、唯一色の黒の中に懶い光を放っている、大きな真珠のネクタイピンを、子爵その人の心のように眺めたと云う記憶があった。……「どうです、この銅版画は。築地居留地の図――ですか。図どりが中々巧妙じゃありませんか。その上明暗・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・お蓮は自堕落な立て膝をしたなり、いつもただぼんやりと、せわしなそうな牧野の帰り仕度へ、懶い流し眼を送っていた。「おい、羽織をとってくれ。」 牧野は夜中のランプの光に、脂の浮いた顔を照させながら、もどかしそうな声を出す事もあった。・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・私は漸くほっとした心もちになって、巻煙草に火をつけながら、始めて懶い睚をあげて、前の席に腰を下していた小娘の顔を一瞥した。 それは油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結って、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・けれども、余り気分が冴えないで若し其儘進んだら如何那に物懶いものが出来上るか分らないと思ったので、其処まで書いてペンを擱いて仕舞いました。そして暫くの間或雑誌に出て居る、日露戦争当時 Peace Maker として働いたルーズベルトを中心と・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・室中に何とも云えず重い懶い雰囲気がこめている。その同じ娘が 人中では顔も小ぢんまり 気どる。スースーとモダン風な大股の歩きつきで。それに対する反感。 十一月初旬の或日やや Fatal な日のこと。・・・ 宮本百合子 「情景(秋)」
・・・ツルゲーネフも、それにつれて外側から観察しそれぞれの時代の作品を書いて行ったが、パリにおける自身の生活の実践ではヴィアルドオ夫人に支配され、始めの時代の懶い形態から本質的には何の飛躍もしないままに残ったのである。 同じように婦人のために・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・左右に其等の静かな、物懶いような景物を眺めつつ、俥夫は急がず膝かぶを曲げ、浅い水たまりをよけよけ駈けているのだが――それにしても、と、私は幌の中で怪しんだ。何故こんなに人気ない大通りなのであろう。木造洋館は、前庭に向って連ってい、海には船舶・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・そういう時、ああ、きょうも済んだという安心と一緒に、又あしたも今日とおんなじ日が来るのかという何か物懶い感情が湧くことがある。毎日、毎日。そして一年、二年。働いて行くということは避け難いことであり、その必要も意味もわかっているのに、時折働い・・・ 宮本百合子 「私たちの社会生物学」
出典:青空文庫