・・・幕はまるで円頂閣のような、ただ一つの窓を残して、この獰猛な灰色の蜘蛛を真昼の青空から遮断してしまった。が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れたように、たった一匹兀々と、・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・彼は到底狂信者のように獰猛に戦うことは出来ない。 宿命 宿命は後悔の子かも知れない。――或は後悔は宿命の子かも知れない。 彼の幸福 彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、―・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ 下顎骨の長い、獰猛に見える伍長が突っ立ったまゝ云った。 彼は、何故、そっちへ行かねばならないか、訊ねかえそうとした。しかし、うわ手な、罪人を扱うようなものゝ云い方は、変に彼を圧迫した。彼は、ポケットの街の女から貰った眼の大きい写真・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 中尉は下顎骨の張った、獰猛な、癇癪持ちらしい顔をしていた。傷口が痛そうな振りもせず、とっておきの壁の青い別室に坐りこんでいた。その眼は、頭蓋骨の真中へ向けられ、何か一つの事にすべての注意を奪われている恰好だった。 やったのは、ロシ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ これはわたくしの性の獰猛なのによるか。痴愚なるによるか。自分にはわからぬが、しかし、今のわたくしは、人間の死生、ことに死刑については、ほぼ左のような考えをもっている。 二 万物はみなながれさる、とへラクレイ・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ これ私の性の獰猛なるに由る乎、癡愚なるに由る乎、自分には解らぬが、併し今の私に人間の生死、殊に死刑に就ては、粗ぼ左の如き考えを有って居る。 二 万物は皆な流れ去るとヘラクリタスも言った、諸行は無常、宇宙は変化の・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・をつけて自分の姓を呼んだが、バルザックの実際の家柄は貴族などではなく、彼が後年獰猛なのがその階級の特性だと云った農民バルザの孫息子である。 父親のベルナールはタルン県の村を出て学問をうけ、大革命時代には弁護士をやった。後、陸軍の経理部に・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・愛なく情なく血なく肉なくしてただ黄金にのみ執着する獰猛なスクルジは過去現在未来の幽霊に引っ張り回されて一夜の間に昔の夢のようなホームの楽しさと冷酷なる今と身近く迫れる暗き死の領とを痛切に見せられた。翌朝はクリスマスである。スクルジはなんとな・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫