・・・人間の最上の理想物だと言うんだ。――君もこの信玄袋を背負って帰るんだから、まあ幸福者だろうてんでね、ハハハ」 惣治にはおかしくもなかった。相変らずあんなことばかし言って、ふわふわしているのだろうという気がされて、袋から眼を反らした。その・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。 筧は雨がしばらく降らないと水が涸れてしまう。また私の耳も日・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・「僕のは岡本君の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」「・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・も一つはたとい多少の無理を含んでいても、進化してきた人間の理想として、男女の結合の精神的、霊的指標として打ち立て、築き守って、行くべきものであるということである。 生命の法則についての英知があって、かつ現代の新生活の現実と機微とを知って・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・いわゆる実行的人生の理想または帰結を標榜することでないか。もしそうであるなら、私にはまだ人生観を論ずる資格はない。なぜならば、私の実行的人生に対する現下の実情は、何らの明確な理想をも帰結をも認め得ていないからである。人生の目的は何であろうか・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ これらの點より推さばこの傳説作者は、天地人三才の思想を背景にして、之を創作せるものなるべく、漢人殊に儒教が天子に望む所は公明正大、その間に一點の私を插むなからんことなれば、この理想を堯に托してその禪讓をつくり、人道の理想を舜に、勤勉の・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・正直は現実の問題、愛は理想、まあ、そんなところに私の主義、とでもいったようなものがひそんでいるのかも知れませんが、私には、まだ、はっきりわからないのです。」「あなたは、クリスチャンですか。」「教会には行きませんが、聖書は読みます。世・・・ 太宰治 「一問一答」
・・・ただ銘々の我慾の節制と相互の人間愛によってのみ理想の社会に到達する事が出来るというのであるらしい。 勿論彼は世界平和の渇望者である。しかしその平和を得るためには必ずしも異種の民族の特徴を減却しなくてもいいという考えだそうである。ユダヤ民・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・四海同胞の理想を実現せんとする人類の心である。今日の世界はある意味において五六十年前の徳川の日本である。どの国もどの国も陸海軍を拡げ、税関の隔てあり、兄弟どころか敵味方、右で握手して左でポケットの短銃を握る時代である。窮屈と思い馬鹿らしいと・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・「――そりゃァ理想というもんですよ、空想というもんですよ。ええ」 夜になって、高坂の工場へいって、板の間の隅で、“来り聴け! 社会問題大演説会”などと、赤丸つきのポスターを書いていると、硝子戸のむこうの帳場で、五高生の古藤や、浅川や・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫