・・・うっとり見ていると肉体がいつの間にか消え失せ、自分まで燃え耀きの一閃きとなったように感じる。甘美な忘我が生じる。 やがて我に還ると、私は、執拗にとう見、こう見、素晴らしい午後の風景を眺めなおしながら、一体どんな言葉でこの端厳さ、雄大な炎・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・その思いは、何事もないとき、甘美に耳を傾けていた良人たるオセロの武勇のつよさを連想させ、そこに自分に向ってぬかれる剣を感じ、デスデモーナは、愛と恐怖に分別を失った。きょうのわたしたち女性はデスデモーナのその恐怖やかくしだてを、全くあわれな、・・・ 宮本百合子 「デスデモーナのハンカチーフ」
・・・前年十月に成立した東條英機内閣はこの時期、彼等にとってもっとも甘美なファシスト独裁の夢をみていた。一九四三年健康状態如何にかかわらず私の作品は発表禁止であった。経済的に困窮した。宮本顕治が一九四〇年に結核のために重態・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・然し、鳥の本性は籠の中より野天の甘美なことを熟知しているに違いない。縁側の手前よりこっちには、決して、決して来ない。チチ、チュ。……思いかえしたように、また元の菊の葉かげ、一輪咲き出した白沈丁花の枝にとまって、首を傾け、黒い瞳で青空を瞰る。・・・ 宮本百合子 「春」
・・・そのマリアがロマーシの妻となり、猶ゴーリキイが嘗て彼女を恋していたということを、彼女がロマーシに話した――恐らく現在の幸福を一層甘美にする笑いと共に。それらのことは、ゴーリキイに、彼等とは別に暮した方がいいと思わせるのであった。 ロマー・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・みのえは、いかにも夜の更けたことを感じ、あっちの灯の明るい、油井の白いソフトカラアーを浮立たせている部屋の沈黙を甘美に思った。 するのは瓦斯の焔が噴き出す音ばかりだ。ピラピラする透明な焔色を見守り、みのえは変に夢中な気持になって湯の沸く・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
・・・決して、たっぷりと開花し、芳香と花粉とを存分空中に振りまいて、実り過ぎて軟くなり、甘美すぎてヴィタミンも失ったその実が墜ちたという工合ではない。謂わば、条件のよくない風土に移植され、これ迄伸び切ったこともない枝々に、辛くも実らしいものをつけ・・・ 宮本百合子 「よもの眺め」
・・・で云っているように愛するという甘美で困難な仕事は、その困難がいかに深刻であるかということを、ヘッセは「車輪の下」においても語ろうとしているのだと思う。 ヘッセは、この小説のなかに、彼の特徴である自然への憧れ、そのうちへ溶け入ってより寛く・・・ 宮本百合子 「若き精神の成長を描く文学」
出典:青空文庫