・・・病人も夜長の枕元に薬を煮る煙を嗅ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。 秋は益深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、や・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・おとうさんやお母さんから頼まれていて、お前たちが死にでもしたら、私は生きてはいられないから一緒に死ぬつもりであの砂山をお前、Mさんより早く駈け上りました。でもあの人が通り合せたお蔭で助かりはしたもののこわいことだったねえ、もうもう気をつけて・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・どうして、この黒い上衣を着て、シルクハットを被った二十人の男が、この意識して、生きた目で、自分達を見ている、生きた、尋常の人間一匹を殺すことが出来よう。そんな事は全然不可能ではないか。 こう思って見ていると、今一秒時間の後に、何か非常な・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」「心細いじゃありませんか、ねえ。」 と寂しそうに打傾く、面に映って、頸をかけ、黒繻子の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、戸外は月の冴えたる気勢。・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 去年母の三年忌で、石塔を立て、父の名も朱字に彫りつけた、それも父の希望であって、どうせ立てるならばおれの生きてるうちにとのことであったが、いよいよでき上がって供養をしたときに、杖を力に腰をのばして石塔に向かった父はいかにも元気がなく影・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・ こないな意気地なしになって、世の中に生きながらえとるくらいなら、いッそ、あの時、六カ月間も生死不明にしられた仲間に這入って、支那犬の腹わたになっとる方がましであった。それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でも・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・と重ねていうと、「墓碑なら書くよ、生きてる中は険呑だから書かんが、死んだら君の墓石へ書いてやろう、」といった。「調戯じゃない。君と僕とドッチが先きへ死ぬか、年からいったって解るじゃないか。」「そりゃア解ってるさ。君のようにむやみと薬・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・そしてこれから先き生きているなら、どんなにして生きていられるだろうかと想像して見ると、その生活状態の目の前に建設せられて来たのが、如何にもこれまでとは違った形をしているので、女房はそれを見ておののき恐れた。譬えば移住民が船に乗って故郷の港を・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・しかし出たものは、死んだ仲間の分も生きのびてしげって、幾十年も、幾百年も雄々しく太陽の輝く下で華やかに暮らしてもらいたい。もし、二つなり、三つなりが、いっしょに明るい世界へ出ることがあったら、たがいに依り合って力となって暮らしそうじゃないか・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ ところが偶然というものは続きだしたら切りのないもので、そしてまた、それがこの世の中に生きて行くおもしろさであるわけですが、ある日、文子が客といっしょに白浜へ遠出をしてきて、そして泊ったのが何と私の勤めている宿屋だった。その客というのは・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫