・・・所詮倫理学は死せる概念の積木細工ではなくして、活きた人間存在の骨組みある表現なのである。この骨組みの鉄筋コンクリート構造に耐え得ずして、直ちに化粧煉瓦を求め、サロンのデコレーションを追うて、文芸の門はくぐるが、倫理学の門は素通りするという青・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 常に労働者と鼻突きあわして住み、また農産物高の半面、増税と嵩ばる生活費に、農産物からの増収を吐き出して足りない百姓の生活を目撃している者には、腑甲斐ない話だとそれは嘆ぜられるのだ。攻勢の華やかな時代にプロレタリア文学があって、敗北の闇・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・その恐ろしい山々の一ト列りのむこうは武蔵の国で、こっちの甲斐の国とは、まるで往来さえ絶えているほどである。昔時はそれでも雁坂越と云って、たまにはその山を越して武蔵へ通った人もあるので、今でも怪しい地図に道路があるように書いてあるのもある。し・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・あれほどおげんは頼み甲斐のない旦那から踏みにじられたように思いながらも、自分の前に手をついて平あやまりにあやまる旦那を眼前に見、やさしい声の一つも耳に聞くと、つい何もかも忘れて旦那を許す気にもなった。おげんが年若な伜の利発さに望みをかけ、温・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・つまり名といい、利といい、身といい、家という、無形、有形、単純、複雑の別はあっても、詮ずるところ自己の生という中心意義を離れては、道徳も最後の一石に徹しない。直観道学はそれを打ち消して利己以上の発足点を説こうけれども、自分らの知識は、どうも・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇ってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・それはポルジイにも分かっているから、我ながら腑甲斐なく思う。しかし平生克己ということをしたことのない男だから、またしては怒に任せて喧嘩をする。 ある日ドリスが失踪した。暇乞もせずに、こっそりいなくなった。焼餅喧嘩に懲りたのである。ポルジ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・頼みに思った極右党はやはり頼み甲斐のない男であった。さてこれからどうしよう。なんだっておれはロシアを出て来たのだろう。今さら後悔しても駄目である。幸にも国にはまだ憲法が無い。その代りには、どこへ行って見ても、穴くらい幾らでもある。溝も幾らも・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ただレニンの仕事はどこまでが成効であるか失敗であるか、おそらくはこれは誰にもよく分らないだろうが、アインシュタインの仕事は少なくも大部分たしかに成効である。これについては世界中の信用のある学者の最大多数が裏書をしている。仕事が科学上の事であ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「ええ、効性がないもんですから、いつお出でたんですの」おひろは銚子を取り上げながら辰之助に聞いたりした。「伯父さんの病気でね」「ああ、松山さんでしょう。あの体の大きい立派な顔の……二三日前に聞きましたわ。もう少し生きていてもらわ・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫