・・・浜を見るとまぶしい。甲板へ上がってボーイに上等はあいているかと問うとあいているとの事、荷物と帽を投げ込んで浜を見ると、今端艇にのり移ったマントの一行五、六人、さきの蝶々髷の連中とサヨーナラといっているのが聞える。蚕種検査の御役人が帰るのだな・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・しばらく船室に引込んでいて再び甲板へ出ると、意外にもひどい雨が右舷から面も向けられないように吹き付けている。寒暖二様の空気と海水の相戦うこの辺の海上では、天気の変化もこんなに急なものかと驚かれるのであった。 海から近づいて行く函館の山腹・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ ある晩甲板の上に出て、一人で星を眺めていたら、一人の異人が来て、天文学を知ってるかと尋ねた。自分はつまらないから死のうとさえ思っている。天文学などを知る必要がない。黙っていた。するとその異人が金牛宮の頂にある七星の話をして聞かせた。そ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
○明治廿八年五月大連湾より帰りの船の中で、何だか労れたようであったから下等室で寝て居たらば、鱶が居る、早く来いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り著くと同時に痰が出たから船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと・・・ 正岡子規 「病」
・・・あんまりみんな甲板のこっち側へばかり来たものだから少し船が傾いた。風が出てきた。何だか波が高くなってきた。東も西も海だ。向うにもう北海道が見える。何だか工合がわるくなってきた。 *いま汽車は函館を発って・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・商船の甲板でシガアの紫の煙をあげるチーフメートの耳の処で、もしもしお子さんはもう歩いておいでですよ、なんて云って行くんだ。船の上の人たちへの僕たちの挨拶は大抵斯んな工合なんだよ、 上の方を見るとあの冷たい氷の雲がしずかに流れている。そう・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく〔約二字分空白〕番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・それは赤く塗ってあり、甲板に鉄格子が出来ている。追放や苦役に決った囚人がそこに入れられて輸送されているのであった。舳先に歩哨の銃剣が燭火のように光っている。艀舟の中は静寂で月の光が豊かに濯いでいる。ゴーリキイは、昼間の疲れと景色の美しさに恍・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・ 彼女は敦賀行汽船の最低甲板から海を眺めていた。海はあの埃をかぶったスレート屋根の色をしていた。タブ……タブ……物懶く海水が船腹にぶつかり、波間に蕪、木片、油がギラギラ浮いていた。彼方に、修繕で船体を朱色に塗りたくられた船が皮膚患者のよ・・・ 宮本百合子 「街」
・・・小蒸汽はキュー植物園で一日暮したが帰るに自動車を持たぬロンドン人を甲板に並べた椅子に満載している。白い手袋をはめさせられた女の子が椅子の上で日曜着の膝に落ちた煤煙をふき払った。河上は風がある。ウェストミンスタア橋に近づくと、河の水からやっと・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫