・・・ 出征する年少の友人の旗に、男児畢生危機一髪、と書いてやりました。 忙、閑、ともに間一髪。 太宰治 「春」
・・・元田は真に陛下を敬愛し、君を堯舜に致すを畢生の精神としていた。せめて伊藤さんでも生きていたら。――否、もし皇太子殿下が皇后陛下の御実子であったなら、陛下は御考があったかも知れぬ。皇后陛下は実に聡明恐れ入った御方である。「浅しとてせけばあふる・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・印象派の画家が好んで描いた題材を採って之を文章となす事を畢生の事業と信じた。後に僕は其主張のあまりに偏狭なることを悟ったのであるが、然し少壮の時に蒙った感化は今に至っても容易に一掃することができない。銀座通のカッフェー内外の光景が僕をしては・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ されば、生れながらにして学に志し、畢生の精神を自身の研究と他人の教導とに用いて、その一方に長ずる者は、学問社会の長者にして、これまた一等官が政事の長者たるに異ならざるや、もとより明白なり。而してその相撲の大関または碁将棋の九段なる者が・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・左れば古来世に行わるゝ和文字の事も単に之を美術の一部分として学ぶは妙なりと雖も、女子唯一の学問と認めて畢生勉強するが如きは我輩の感服せざる所なり。一 女子の徳育には相当の書籍もある可し、父母長者の物語もある可しと雖も、書籍読むよりも物語・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・ 栄蔵が、畢生の弁舌を振っても、山岸の方へは何の効力もなかった。 あまり話がはかどらないので、仕舞いにはお金の云った事がほんとうであったのかもしれないと思う様になったりした。 途方に暮れて、馬場へも、度々栄蔵は出かけて行って二人・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・地位としては大した役人ではなかった様子であるが、この中條政恒という人の畢生の希望と事業とは、所謂開発のこと、即ち開墾事業で、まだ藩があった頃、北海道開発の案を藩に建議したところ若年の身で分に過ぎたる考えとして叱られた。その北海道へ手をつけて・・・ 宮本百合子 「明治のランプ」
・・・卒業論文には、国史は自分が畢生の事業として研究する積りでいるのだから、苛くも筆を著けたくないと云って、古代印度史の中から、「迦膩色迦王と仏典結集」と云う題を選んだ。これは阿輸迦王の事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかっ・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫