・・・ 偶像 何びとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない。同時に又彼自身を偶像にすることに異存を持っているものもない。 又 しかし又泰然と偶像になり了せることは何びとにも出来ることではない。勿論・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・これは誰でも彼のように海水浴をしさえすれば、異存のない真理に違いない。海は実は代赭色をしている。バケツの錆に似た代赭色をしている。 三十年前の保吉の態度は三十年後の保吉にもそのまま当嵌る態度である。代赭色の海を承認するのは一刻も早いのに・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・犬の真似をすることには格別異存はないにしても、さすがにあたりの人目だけは憚っているのに違いなかった。が、その目の定まらない内に、主計官は窓の外へ赤い顔を出しながら、今度は何か振って見せた。「わんと云え。わんと云えばこれをやるぞ。」 ・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・男は欲に渇いていますから、異存のある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺にはまったのですから、女一人を残したまま、男・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・と俯向いて、唾を吐いて、「じゃから諸君、誰にしても異存はあるまい。宜しゅうございます。行っていらっしゃいと云うて、その金子を請取ったんじゃ、可えか、諸君。ところでじゃ、約束通りに、あとの二円を持って、直ぐにその熊手を取りに来れば何事・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・をしてはいかぬ、只何時他人を迎えても礼儀と趣味とを保ち得るだけでよい、此の如き風習一度立たば、些末の形式などは自然に出来てくる一貫せる理想に依て家庭を整へ家庭を楽むは所有人事の根柢であるというに何人も異存はあるまい、食事という天則的な人事を・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ 省作はもとより異存のありようがない、返事は簡単であった。 深田にいられないのもおとよさんゆえだ。家に帰って活き返ったのもおとよさんゆえだ。もう毛のさきほども自分に迷いはない。命の総てをおとよさんに任せる。 こういう場合に意志の・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・こちらからもすぐ返事して、異存はありませんと、簡単に目出度く、――ああ、恥かしいことだ。考える暇もなくとたんにそんな風に心を決めて、飛びつくように返事して、全く想えば恥かしい。あんな人とは絶対に結婚なんかするものかと、かたく心に決め、はたの・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである―― 八 自分は以上の所説にすこしの異存もない。ことに東京市の町外れを題目とせよとの注意はすこぶる同意であって、自分もかねて思いついていたことである・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ こういう新しいものを人形芝居に取り入れることについては異存のある人が多いようであるが自分はそうは思わない。もっと遠慮なく取りいれてみてもいいだろうと思う。見なれないうちは少しおかしくても、それはかまわない。百年の後には「金色夜叉」でも・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
出典:青空文庫