・・・同仁病院長山井博士の説によれば、忍野氏は昨夏脳溢血を患い、三日間人事不省なりしより、爾来多少精神に異常を呈せるものならんと言う。また常子夫人の発見したる忍野氏の日記に徴するも、氏は常に奇怪なる恐迫観念を有したるが如し。然れども吾人の問わんと・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・が、江口の人間的興味の後には、屡如何にしても健全とは呼び得ない異常性が富んでいる。これは菊池が先月の文章世界で指摘しているから、今更繰返す必要もないが、唯、自分にはこの異常性が、あの黒熱した鉄のような江口の性格から必然に湧いて来たような心も・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・の教を信じない、ヨセフの心にさえ異常な印象を与えた。彼の言葉を借りれば、「それがしも、その頃やはり御主の眼を見る度に、何となくなつかしい気が起ったものでござる。大方死んだ兄と、よう似た眼をしていられたせいでもござろう。」 その中にクリス・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・――そう云う天竺の寓意譚は、聞くともなく説教を聞いていた、この不幸な女の心に異常な感動を与えました。だからこそ女は説教がすむと、眼に涙をためたまま、廊下伝いに本堂から、すぐに庫裡へ急いで来たのです。「委細を聞き終った日錚和尚は、囲炉裡の・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 独りドストイフスキイの作品ばかりでなく他の有名なる名作は、事件そのことが異常なものがあるのは事実であるけれど、そのソロが深刻な感銘を与えるものでないことはやはり同じであります。たゞ其の中に含まれた真実を他にしては、芸術の力というものは・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・ どんな人間でも年から年中、異常な感激を持すことは、困難な事である。不断の感激を心に持するということは、其の人が特殊な理想主義者でなければならない。人間性の為めの勇敢な戦士であらねばならぬ。現実が極めて安意な無目的の状態に見えるのも、或・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・神経衰弱の八割までは眼の屈折異常と関係があるという説を成す医者もあるくらいだから――、とこんな風に僕は我田引水し、これも眼の良い杉山平一などとグルになって、他の眼鏡の使用を必要とする友人を掴えて、さも大発見のようにこの説を唱えて、相手をくさ・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・あの明確な頭脳の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して驀地らに未来の目標に向って突進しようという勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周囲を視廻し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖も除き去らずには措かぬと・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・彼はその異常な光景に昂奮して涙ぐんだ。風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡は賑わっていた。暗のなかから白粉を厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。 今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫