・・・おせんがこの部屋で菫の刺繍なぞを造ろうとしては、花の型のある紙を切地に宛行ったり、その上から白粉を塗ったりして置いて、それに添うて薄紫色のすが糸を運んでいた光景が、唯涙脆かったような人だけに、余計可哀そうに思われて来た。大塚さんは、安楽椅子・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ 代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、衣ずれの音、白粉の香いに胸を躍らしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。 停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長もその他の駅夫・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・中年の商人風の男の中に交じった一人の若い女の紫色に膨れ上がった顔に白粉の斑になっているのが秋の日にすさまじく照らし出されていた。一段降りて河畔の運動場へ出ると、男女学生の一と群が小鳥のごとく戯れ遊んでいた。男の方がたいてい大人しくしおらしく・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・顔にはほんのり白粉がはかれてあった。「ほう、綺麗になったね」私はからかった。「そんな着物はいっこう似あわん」桂三郎はちょっと顔を紅くしながら呟いた。「いくらおめかしをしてもあかん体や」彼はそうも言った。 私たちはすぐに電車の・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 三吉があわてて電灯の灯の方へ顔をむけると、気のいい人の要慎なさで、白粉の匂いと一緒に顔をくっつけながら、「あなたは、それでいいんですか?」 といった。三吉はくらい方をむいたままうなずいた。すっかり夜になって、草すだれなどつるし・・・ 徳永直 「白い道」
・・・江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉を塗った女が入浴の男を捉えて戯れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群の戯れ遊ぶ浴殿の歓楽さえさして羨むには当るまい。 ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・毛繻子のくけ紐は白粉の上にくっきりと強い太い線を描いて居る。削った長い木の杖を斜について危げに其足駄を運んで行く。上部は荷物と爪折笠との為めに図抜けて大きいにも拘らず、足がすっとこけて居る。彼等の此の異様な姿がぞろぞろと続く時其なかにお石が・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ぽうッとしかも白粉を吹いたような耳朶の愛らしさ。匂うがごとき揉上げは充血くなッた頬に乱れかかッている。袖は涙に濡れて、白茶地に牛房縞の裏柳葉色を曇らせている。島田髷はまったく根が抜け、藤紫のなまこの半掛けは脱れて、枕は不用もののように突き出・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・格子の中から、赤い襟をかけ白粉をつけた一太より少し位大きい女の子が出て来る、そういうとき、その女の子も黙ってお金を出すし、一太も黙って納豆の藁づとと辛子を渡す、二人の子供に日がポカポカあたった。 家によって、大人の女が出て来た。「お・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・あの白粉の仮面の背後に潜む小さい霊が、己を浪花節の愛好者だと思ったのがどうしたと云うのだ。そう思うなら、そう思わせて置くが好いではないか。試みに反対の場合を思って見ろ。この霊が己を三味線の調子のわかる人間だと思ってくれたら、それが己の喜ぶべ・・・ 森鴎外 「余興」
出典:青空文庫