・・・ あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ならんとする、瞬間に異ならず。 同時に真直に立った足許に、なめし皮の樺色の靴、宿を欺・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・と念のためいってみて、瞬した、目が渋そう。「不可ねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。」「じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。」「だって姉さん、ベソも掻かざらに。夜一夜亡念の火が船について離れねえだもの。理右・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、私がこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。 お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。 いや・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・大して御立腹もあるまいけれども、作がいいだけに、瞬もしたまいそうで、さぞお鬱陶しかろうと思う。 俥は寂然とした夏草塚の傍に、小さく見えて待っていた。まだ葉ばかりの菖蒲杜若が隈々に自然と伸びて、荒れたこの広い境内は、宛然沼の乾いたのに似て・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ 小宮山は三蔵法師を攫われた悟空という格で、きょろきょろと四辺をみまわしておりましたが、頂は遠く、四辺は曠野、たとえ蝙蝠の翼に乗っても、虚空へ飛び上る法ではあるまい、瞬一つしきらぬ中、お雪の姿を隠したは、この家の内に相違ないぞ、這奴! ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 今にも泣き出しそうに瞬たいている彼の眼を覗き込んで、Kは最後の宣告でも下すように、斯う云った。 二 ………… 眼を醒まして見ると、彼は昨夜のまゝのお膳の前に、肌襦袢一枚で肱枕して寝ていたのであった。身体中そ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・と大友は眼を瞬たいた。お正ははんけちを眼にあてて頭を垂れて了った。「まア可いサ、酒でも飲みましょう」と大友は酌を促がして、黙って飲んでいると、隣室に居る川村という富豪の子息が、酔った勢いで、散歩に出かけようと誘うので、大友はお正を連れ、・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・と倉蔵は眼を瞬たいた。この時老先生の声で「倉蔵! 倉蔵!」と呼ぶ声が座敷の縁先でした。倉蔵は言葉を早めて、益々小さな声で「然し晩になると大概校長さんが来ますからその時だけは幾干か気嫌が宜えだが校長さんも感心に如何なんと言われても逆か・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・星明かなる夜最後の一ぷくをのみ終りたる後、彼が空を仰いで「嗚呼余が最後に汝を見るの時は瞬刻の後ならん。全能の神が造れる無辺大の劇場、眼に入る無限、手に触るる無限、これもまた我が眉目を掠めて去らん。しかして余はついにそを見るを得ざらん。わが力・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・女は薄紅くなった頬を上げて、繊い手を額の前に翳しながら、不思議そうに瞬をした。この女とこの文鳥とはおそらく同じ心持だろう。 日数が立つにしたがって文鳥は善く囀ずる。しかしよく忘れられる。或る時は餌壺が粟の殻だけになっていた事がある。ある・・・ 夏目漱石 「文鳥」
出典:青空文庫