・・・河畔の柳の樹に馬を繋いで、鉛筆で遺書を書いてそいつを鞍に挟んでおいて、自分は鉄橋を渉って真中からどぶんと飛込んじゃった。残念でならんがだ。」爺さんは調子に乗って来ると、時々お国訛りが出た。「そこへ上官が二人通りあわせて、乗棄ててある馬を・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・先生は海鼠腸のこの匂といい色といいまたその汚しい桶といい、凡て何らの修飾をも調理をも出来得るかぎりの人為的技巧を加味せざる天然野生の粗暴が陶器漆器などの食器に盛れている料理の真中に出しゃばって、茲に何ともいえない大胆な意外な不調和を見せてい・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 宣徳の香炉に紫檀の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫んだ青玉のつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛が」と云うて長い袖が横に靡く、二人の男は共に床の方を見る。香炉に隣る白磁の瓶には蓮の花がさしてある。昨日の雨を・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ と恐怖に胸を動悸しながら、思わず私が叫んだ時、或る小さな、黒い、鼠のような動物が、街の真中を走って行った。私の眼には、それが実によくはっきりと映像された。何かしら、そこには或る異常な、唐突な、全体の調和を破るような印象が感じられた。・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・室の真中からたった一つの電燈が、落葉が蜘蛛の網にでもひっかかったようにボンヤリ下って、灯っていた。リノリュームが膏薬のように床板の上へ所々へ貼りついていた。テーブルも椅子もなかった。恐ろしく蒸し暑くて体中が悪い腫物ででもあるかのように、ジク・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
為事室。建築はアンピイル式。背景の右と左とに大いなる窓あり。真中に硝子の扉ありてバルコンに出づる口となりおる。バルコンよりは木の階段にて庭に降るるようなりおる。左には広き開き戸あり。右にも同じ戸ありて寝間に通じ、この分は緑の天鵞絨の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
○こう生きて居たからとて面白い事もないから、ちょっと死んで来られるなら一年間位地獄漫遊と出かけて、一周忌の祭の真中へヒョコと帰って来て地獄土産の演説なぞは甚だしゃれてる訳だが、しかし死にッきりの引導渡されッきりでは余り有難くないね。けれ・・・ 正岡子規 「墓」
・・・一坪でも、そこから米を産出する稲田の真中に、大きい面積をつぶして住居を立てるほど地主たちは愚かでないという証拠である。彼等は多く都会に家をもっているのだろう。小作としてどうしてもそこで働かせておかなければこまる農民の住居は最小限において。家・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
・・・まだ余りよごれていない、病人の白地の浴衣が真白に、西洋の古い戦争の油画で、よく真中にかいてある白馬のように、目を刺激するばかりで、周囲の人物も皆褐色である。「お医者様が来ておくんなされた」 と誰やらが云ったばかりで、起って出迎えよう・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・或るものはその日の祈りをするために跪き、或るものは手紙を書き、或るものは物思いに沈み込み、また、ときとしては或るものは、盛装をこらして火の消えた廊下の真中にぼんやりと立っていた。恐らく彼女らにはその最も好む美しき衣物を着る時間が、眠るとき以・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫