・・・ 彼は毎晩酔払っては一時ごろまでぐっすりと睡りこんだ。眼が醒めては追かけ苦しい妄想に悩まされた。ある時には自分が現在、広大な農園、立派な邸宅、豊富な才能、飲食物等の所有者であるような幻しに浮かされたが、また神とか愛とか信仰とかいうような・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・戸を鎖し眠りに入っている。星空の下に、闇黒のなかに。彼らはなにも知らない。この星空も、この闇黒も。虚無から彼らを衛っているのは家である。その忍苦の表情を見よ。彼は虚無に対抗している。重圧する畏怖の下に、黙々と憐れな人間の意図を衛っている。・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ば車で小児も喜び老人もまた小児のごとく喜びたもうかと思えば、福はすでにわが家の門内に巣食いおり候、この上過分の福はいらぬ事に候 今夜は雨降りてまことに静かなる晩に候、祖父様と貞夫はすでに夢もなげに眠り、母上と妻は次の室にて何事か小声に語・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・ユフカ村は、今、ようよう晨の眠りからさめたばかりだった。 森の樹枝を騒がして、せわしい馬蹄の音がひびいてきた。蹄鉄に蹴られた礫が白樺の幹にぶつかる。馬はすぐ森を駈けぬけて、丘に現れた。それには羊皮の帽子をかむり、弾丸のケースをさした帯皮・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・この日さのみ歩みしというにはあらねど、暑かりしこととていたく疲れたるに、腹さえいささか痛む心地すれば、酒も得飲まで睡りにつく。 八日、朝餉を終えて立出で、まず妙見尊の宮に詣ず。宮居は町の大通りを南へ行きて左手にあり。これぞというべきこと・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
過日、わたしはもののはじに、ことしの夏のことを書き添えるつもりで、思わずいろいろなことを書き、親戚から送って貰った桃の葉で僅かに汗疹を凌いだこと、遅くまで戸も閉められない眠りがたい夜の多かったこと、覚えて置こうと思うことも・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・そのかわり、もし途中で少しでもい眠りをすると、すぐにきり殺してしまうから、そのつもりでおいで下さいとお言いになりました。 すると方々の王さまや王子たちは、何だ、そんなことなら、だれにだって出来ると言って、どんどんおしかけて来ました。・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・「さあ、もう一眠りだ。キクちゃんも、おやすみ。」 キクちゃんも仰向けに、私と直角に寝て、そうしてまつげの長い大きい眼を、しきりにパチパチさせて眠りそうもない。 私は黙って本箱の上の、蝋燭の焔を見た。焔は生き物のように、伸びたりち・・・ 太宰治 「朝」
・・・再び眠りに落ちてうとうとしながら、古い昔に死んだ故郷の人の夢を見た。フロイドの夢判断に拠るまでもなく、これは時鳥や水鶏が呼び出した夢であろう。 宿の庭の池に鶺鴒が来る。夕方近くなると、どこからともなく次第に集まって来て、池の上を渡す電線・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ 眠りながら、その夜私は思った。あの人達はどうして、あんなに、狐を憎くんだのであろう。鶏を殺したとて、狐を殺した人々は、狐を殺したとて、更に又、鶏を二羽まで殺したのだ。 ああ、ツルゲネーフは、蛇と蛙の争いから、幼心に神の慈悲心を疑っ・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫