・・・ かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期なし。父と兄とは唯々として遺言の如く、憐れなる少女の亡骸を舟に運ぶ。 古き江に漣さえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り罩むる陰を離れて中流に漕ぎ出づる。櫂操るはただ一人・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 安岡は、ふだん臆病そうに見える深谷が、グウグウ眠るのに腹を立てながら、十一時にもなれば眠りに陥ることができた。 セコチャンが溺死して、一週間目の晩であった。安岡はガサガサと寝返りを三時間も打ち続けたあげく、眠りかけていた。が、まだ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・人に恵まれたる物を食らいて腹を太くし、あるいは駆けまわり、あるいは噛み合いて疲るれば乃ち眠る。これ犬豕が世を渡るの有様にして、いかにも簡易なりというべし。されども人間が世に居て務むべきの仕事は、斯く簡易なるものにあらず、随分数多くして入り込・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・ 蕪村の句の絵画的なるものは枚挙すべきにあらねど、十余句を挙ぐれば木瓜の陰に顔たくひすむ雉かな釣鐘にとまりて眠る胡蝶かなやぶ入や鉄漿もらひ来る傘の下小原女の五人揃ふて袷かな照射してさゝやく近江八幡かな葉うら/・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 二人はすっかり眠る積りでもなしにそこへ長くなった。そしてそのままうとうとした。ダーダーダーダーダースコダーダー 強い老人らしい声が剣舞の囃しを叫ぶのにびっくりして富沢は目をさました。台所の方で誰か三、四人の声ががやがや・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・「ポーランドに生れ、フランスに眠るわが母マリー・スマロドオスカ・キュリー」という献辞のついたこの旅行記は、日本語に翻訳されている部分だけでも、ふかい感興をうごかされ、エヴの公平な理解力と人間としての善意にうたれる。 エリカ・マンの各国巡・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・あの目の血走っているのも、事によったら酒と色とに夜を更かした為めではなくて、深い物思に夜を穏に眠ることの出来なかった為めではあるまいか。強いて推察して見れば、この百物語の催しなんぞも、主人は馬鹿げた事だと云うことを飽くまで知り抜いていて、そ・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・あの男は神の恵みの下に眠るがよい。お前さんはとにかくまだ若いから」と云うような事であった。ユリアは頷いた。悲しげな女の目には近所の人達の詞に同意する表情が見えた。そしてこう云った。「難有うございます。皆さんが御親切になすって下すって難有うご・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・恐らく彼女らにはその最も好む美しき衣物を着る時間が、眠るとき以外にはないのであろう。 或る夜、彼女らの一人は、夜更けてから愛する男の病室へ忍び込んで発見された。その翌日、彼女は病院から解雇された。出て行くとき彼女は長い廊下を見送る看護婦・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・彼は普通の人のごとくに歩み、語り、食い、眠る。この点においては彼は常人と区別がつかない。けれどもひとたび彼を楽器の前に据えれば彼はたちまち天才として諸君に迫って来る。しかし諸君の前に一人の黒人が現われたとする。一眼見れば直ちにその黒人である・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫