・・・佐吉さんは、超然として、べつにお祭の晴着を着るわけでなし、ふだん着のままで、店の用事をして居ましたが、やがて、来る若者、来る若者、すべて派手な大浪模様のお揃いの浴衣を着て、腰に団扇を差し、やはり揃いの手拭いを首に巻きつけ、やあ、おめでとうご・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・長野は演説するとき、かならず菜ッ葉服を着るが、そのときは興ざめたように、中途でかえってしまった。前座には深水と高坂がしゃべった。浪花ぶし語りみたい仙台平の袴をつけた深水の演説のつぎに、チョッキの胸に金ぐさりをからませた高坂が演壇にでて、永井・・・ 徳永直 「白い道」
・・・生れ落ちてから畳の上に両足を折曲げて育った揉れた身体にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着る洋服も臆面なく採用しよう。用があれば停電しがちの電車にも乗ろう。自動車にも乗ろう。園遊会にも行こう。浪花節も聞こう。女優の鞦韆も下からのぞ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・けれども事実やむをえない、仕方がないからまず衣物を着る時には呉服屋の厄介になり、お菜を拵える時には豆腐屋の厄介になる。米も自分で搗くよりも人の搗いたのを買うということになる。その代りに自分は自分で米を搗き自分で着物を織ると同程度の或る専門的・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・外には活溌にして内には懶惰、台所の有様を知らず、玄関の事情を知らず、子供の何を喰らい何を着るを知らず、家族召使の何を楽しみ何を苦しむを知らず。早朝に家を出て夜に入らざれば帰らず。あるいは夜分に外出することあり、不意に旅行することあり。主人は・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・山男は夜具を綿入の代りに着るかも知れない。それから団子も持って行こう」 亮二は叫びました。「着物と団子だけじゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまわって、それからからだが天に飛んでしまう・・・ 宮沢賢治 「祭の晩」
・・・男の子も女の子も十六七になれば、食べるものも着るものも大人なみである。本だって沢山よみたいし、運動もしたい。ソヴェト同盟には工場図書館、スポーツ・サークルが発達していて、大体無料でいろいろのことができるが、食物、衣服はまだ無料とはゆかない。・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・平生人には吝嗇と言われるほどの、倹約な生活をしていて、衣類は自分が役目のために着るもののほか、寝巻しかこしらえぬくらいにしている。しかし不幸な事には、妻をいい身代の商人の家から迎えた。そこで女房は夫のもらう扶持米で暮らしを立ててゆこうとする・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・恐らく彼女らにはその最も好む美しき衣物を着る時間が、眠るとき以外にはないのであろう。 或る夜、彼女らの一人は、夜更けてから愛する男の病室へ忍び込んで発見された。その翌日、彼女は病院から解雇された。出て行くとき彼女は長い廊下を見送る看護婦・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・霊活の詩人が山の奥に山の人の衣を着る時、山の人は「人」として第一義に活動する。すべてを超越した山の人はついに心霊をも超越し去った。最も鹿と猪とに近くなって第十義に堕落したのである。キーツが山の人の衣を着くる時ウィルヘルム・テルは弓矢を持って・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫