・・・常の私だったら、こんな乱暴な決意は、逆立ちしたってなしえなかったところのものなのであったが、盆地特有の酷暑で、少しへんになっていた矢先であったし、また、毎日、何もせず、ただぽかんと家主からの速達を待っていて、死ぬほど退屈な日々を送って、むし・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・けれども私は、自殺を処世術みたいな打算的なものとして考えていた矢先であったから、兄のこの言葉を意外に感じた。 白状し給え。え? 誰の真似なの? 水到りて渠成る。 彼は十九歳の冬、「哀蚊」という短篇を書いた。それは、よ・・・ 太宰治 「葉」
・・・丙種で、三浦君は少からず腐っていた矢先でもあったし、気晴しに下吉田のその遠縁の旅館に、遊びに行こうと思い立った。 姉は律子。妹は貞子。之は、いずれも仮名である。本当の名前は、もっと立派なのだが、それを書いては、三浦君も困るだろうし、姉妹・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・ そのころには私も或る無学な田舎女と結婚していたし、いまさら汐田のその出来事に胸をときめかすような、そんな若やいだ気持を次第にうしないかけていた矢先であったから、汐田のだしぬけな来訪に幾分まごつきはしたが、彼のその訪問の底意を見抜く事を・・・ 太宰治 「列車」
・・・それをひねくり廻している矢先へ通りかかったのが保険会社社長で葬儀社長で動物愛護会長で頭が禿げて口髯が黒くて某文士に似ている池田庸平事大矢市次郎君である。それが団十郎の孫にあたるタイピストをつれて散歩しているところを不意に写真機を向けて撮る真・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ こんな実験をやっている矢先に都下の有力な新聞で旬刊が発行されるようになった。私の思考実験の一半はすでに現実化されたようでもあるが、残る半分すなわち日刊の廃止という事はちょっと実現される蓋然性が乏しい。 しかし旬刊週刊等の発行によっ・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・とか、「吉原へ矢先そろへて案山子かな。」などいう江戸座の発句を、そのままの実景として眺めることができたのである。 浄瑠璃と草双紙とに最初の文学的熱情を誘い出されたわれわれには、曲輪外のさびしい町と田圃の景色とが、いかに豊富なる魅力を示し・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・床しからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然と容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、凋れたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、天つ下れるマリヤのこの寺の神壇・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・私のしかつめらしい態度と堂々たる演題とに心を傾けて、ある程度まで厳粛の気分を未来に延長しようという予期のある矢先へ、突然人前では憚るべき異な音を立てられたのでその矛盾の刺激に堪えないからです。この笑う刹那には倫理上の観念は毫も頭を擡げる余地・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・ お熊が何か言おうとした矢先、階下でお熊を呼ぶ声が聞えた。お熊は返辞をして立とうとして、またちょいと蹲踞んだ。「ねえ、よござんすか。今晩からでも店にお出なさいよ。店にさえおいなさりゃ、御内所のお神さんもお前さんを贔屓にしておいでなさ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫