ある曇った初夏の朝、堀川保吉は悄然とプラットフォオムの石段を登って行った。と云っても格別大したことではない。彼はただズボンのポケットの底に六十何銭しか金のないことを不愉快に思っていたのである。 当時の堀川保吉はいつも金・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 入口の石段を、二三級上ると、扉が開いているので、中が見える。中は思ったよりも、まだ狭い。正面には、一尊の金甲山神が、蜘蛛の巣にとざされながら、ぼんやり日の暮を待っている。その右には、判官が一体、これは、誰に悪戯をされたのだか、首がない・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・そうしたらその人はやがて橋本さんという家の高い石段をのぼり始めた。見るとその石段の上には、橋本さんの人たちが大ぜい立って、ぼくの家の方を向いて火事をながめていた。そこに乞食らしい人がのぼって行くのだから、ぼくはすこし変だと思った。そうすると・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ある年の冬番人を置いてない明別荘の石段の上の方に居処を占めて、何の報酬も求めないで、番をして居た。夜になると街道に出て声の嗄れるまで吠えた。さて草臥れば、別荘の側へ帰って独で呟くような声を出して居た。 冬の夜は永い。明別荘の黒い窓はさび・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 一寺に北辰妙見宮のまします堂は、森々とした樹立の中を、深く石段を上る高い処にある。「ぼろきてほうこう。ぼろきてほうこう。」 昼も梟が鳴交わした。 この寺の墓所に、京の友禅とか、江戸の俳優某とか、墓があるよし、人伝に聞いたの・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・時々ぽつりと来るのは――樹立は暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆蟹になりそうに見えるまで、濡々と森の梢を潜って、直線に高い。その途中、処々夏草の茂りに蔽われたのに、雲の影が映っ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・お宮へおまいりをして、お婆さんは山を降りて来ますと、石段の下に赤ん坊が泣いていました。「可哀そうに捨児だが、誰がこんな処に捨てたのだろう。それにしても不思議なことは、おまいりの帰りに私の眼に止るというのは何かの縁だろう。このままに見捨て・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・お宮へおまいりをして、おばあさんは山を降りてきますと、石段の下に、赤ん坊が泣いていました。「かわいそうに、捨て子だが、だれがこんなところに捨てたのだろう。それにしても不思議なことは、おまいりの帰りに、私の目に止まるというのは、なにかの縁・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・そこの高い石段を登って、有名なここの眺望にも対してみた。切立った崖の下からすぐ海峡を隔てて、青々とした向うの国を望んだ眺めはさすがに悪くはなかった。が、私はそれよりも、沖に碇泊した内国通いの郵船がけたたましい汽笛を鳴らして、淡い煙を残しなが・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・驚いて拾い上げたが、もう縄に掛らなかったので、前掛けに包んで帰ろうとすると、石段につまずいて倒れた。手と膝頭を擦り剥いただけでしたが、私は手ぶらで帰っても浜子に折檻されない口実ができたと思ったのでしょう、通りかかった人が抱き起しても、死んだ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫