・・・そう云うことにも気づかなかったと云うのは……… 保吉は下宿へ帰らずに、人影の見えない砂浜へ行った。これは珍らしいことではない。彼は一月五円の貸間と一食五十銭の弁当とにしみじみ世の中が厭になると、必ずこの砂の上へグラスゴオのパイプをふかし・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・海は広い砂浜の向うに深い藍色に晴れ渡っていた。が、絵の島は家々や樹木も何か憂鬱に曇っていた。「新時代ですね?」 K君の言葉は唐突だった。のみならず微笑を含んでいた。新時代? ――しかも僕は咄嗟の間にK君の「新時代」を発見した。それは・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・にも、朝から晩まで、沢山の人が集って来て、砂山からでも見ていると、あんなに大勢な人間が一たい何所から出て来たのだろうと不思議に思えるほどですが、九月にはいってから三日目になるその日には、見わたすかぎり砂浜の何所にも人っ子一人いませんでした。・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、砂浜を海方へ続いて、且つその背のあたりが連りに息を吐くと見えて、戦いているのである。 心弱き女房も、直ちにこれを、怪しき海の神の、人を漁るべく海から顕われたとは、余り目のあたりゆえ考えず・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・見つけられまい、と背後をすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人が揃って立つでしゅから、ひょいと岨路へ飛ぼうとする処を、 ――まて、まて、まて―― と娘の声でしゅ。見惚れて顱が顕われたか、罷了と、慌てて足許の穴へ隠れ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・が、砂浜に鳥居を立てたようで、拝殿の裏崕には鬱々たるその公園の森を負いながら、広前は一面、真空なる太陽に、礫の影一つなく、ただ白紙を敷詰めた光景なのが、日射に、やや黄んで、渺として、どこから散ったか、百日紅の二三点。 ……覗くと、静まり・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・その晩もとうとう寝床を起きてしまいまして、幸い月夜でもあり、旅館を出て、錯落とした松樹の影を踏みながら砂浜へ出て行きました。引きあげられた漁船や、地引網を捲く轆轤などが白い砂に鮮かな影をおとしているほか、浜には何の人影もありませんでした。干・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・腐りかけた漁船がひとつ、砂浜に投げ捨てられ、ひっくりかえって、まっくろい腹を見せてあるほかには、犬ころ一匹いなかった。私は、ズボンのポケットに両手をつっこみ、同じ地点をいつまでもうろうろ歩きまわり、眼のまえの海の形容詞を油汗ながして捜査して・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ 第三場舞台は、月下の海浜。砂浜に漁船が三艘あげられている。そのあたりに、一むらがりの枯れた葦が立っている。背景は、青森湾。舞台とまる。一陣の風が吹いて、漁船のあたりからおびただしく春の枯葉舞・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・暗緑色に濁った濤は砂浜を洗うて打ち上がった藻草をもみ砕こうとする。夥しく上がった海月が五色の真砂の上に光っているのは美しい。 寛げた寝衣の胸に吹き入るしぶきに身顫いをしてふと台場の方を見ると、波打際にしゃがんでいる人影が潮霧の中にぼんや・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫