・・・』そこで私は徐に赤いモロッコ皮の椅子を離れながら、無言のまま、彼と握手を交して、それからこの秘密臭い薄暮の書斎を更にうす暗い外の廊下へ、そっと独りで退きました。すると思いがけなくその戸口には、誰やら黒い人影が、まるで中の容子でも偸み聴いてい・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな田舎にしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは皆目つかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そして黒い上衣と光るシルクハットとのために、綺麗に髯を剃った、秘密らしい顔が、一寸廉立った落着を見せている。 やはり廉立ったおちつきを見せた頭附をして検事の後の三人目の所をフレンチは行く。 監獄の廊下は寂しい。十五人の男の歩く足音は・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 町を行くにも、気の怯けるまで、郷里にうらぶれた渠が身に、――誰も知るまい、――ただ一人、秘密の境を探り得たのは、潜に大なる誇りであった。 が、ものの本の中に、同じような場面を読み、絵の面に、そうした色彩に対しても、自から面の赤うな・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・おとよさんももちろん人をばかにするなどの悪気があってした事ではないけれど、つまりおとよさんがみんなの気合いにかまわず、自分一人の秘密にばかり屈託していたから、みんなとの統一を得られなかったのだ。いつでも非常なよい声で唄をうたって、随所の一団・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・椿岳はこのお師匠さんに弟子入りして清元の稽古を初めたが、家族にも秘密ならお師匠さんにも淡島屋の主人であるのを秘して、手代か職人であるような顔をして作さんと称していた。それから暫らく経って椿岳の娘が同じお師匠さんに入門すると、或時家内太夫は「・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それから色々な秘密らしい口供をしたりまたわざと矛盾する口供をしたりして、予審を二三週間長引かせた。その口供が故意にしたのであったという事は、後になって分かった。 ある夕方女房は檻房の床の上に倒れて死んでいた。それを見附けて、女の押丁が抱・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・欠伸をまじえても金銭に換算しても、やはり女の生理の秘密はその都度新鮮な驚きであった。私は深刻憂鬱な日々を送った。 阿部定の事件が起ったのは、丁度そんな時だ。妖艶な彼女が品川の旅館で逮捕された時、号外が出て、ニュースカメラマンが出動した。・・・ 織田作之助 「世相」
・・・私は医科の小使というものが、解剖のあとの死体の首を土に埋めて置いて髑髏を作り、学生と秘密の取引をするということを聞いていたので、非常に嫌な気になった。何もそんな奴に頼まなくたっていいじゃないか。そして女というものの、そんなことにかけての、無・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 出品の製作は皆な自宅で書くのだから、何人も誰が何を書くのか知らない、また互に秘密にしていた。殊に志村と自分は互の画題を最も秘密にして知らさないようにしていた。であるから自分は馬を書きながらも志村は何を書いているかという問を常に懐いてい・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
出典:青空文庫