・・・たまに自動車が来たと思えば、それは空車の札を出した、泥にまみれているタクシイだった。 その内に彼の店の方から、まだ十四五歳の店員が一人、自転車に乗って走って来た。それが洋一の姿を見ると、電柱に片手をかけながら、器用に彼の側へ自転車を止め・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 曳いて来たは空車で、青菜も、藁も乗って居はしなかったが、何故か、雪の下の朝市に行くのであろうと見て取ったので、なるほど、星の消えたのも、空が淀んで居るのも、夜明に間のない所為であろう。墓原へ出たのは十二時過、それから、ああして、ああし・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ 改造社を出ると空車が通りかかったので、それに乗って大日本印刷へ行った。四階でエレヴェーターを降りると、エレヴェーターのすぐ前が改造の校正室だった。 はいって行くと、きかぬ先に、「武田さん来てますよ」 と、Aさんが言った。・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・叢の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車荷車の林を廻り、坂を下り、野路を横ぎる響。蹄で落葉を蹶散らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高に話しながらゆく村の者のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・すると二人が今来た道の方から空車らしい荷車の音が林などに反響して虚空に響き渡って次第に近づいて来るのが手に取るように聞こえだした。『しばらくすると朗々な澄んだ声で流して歩く馬子唄が空車の音につれて漸々と近づいて来た。僕は噴煙をながめたま・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・路行く人や農夫や行商や、野菜の荷を東京へ出した帰りの空車を挽いた男なんどのちょっと休む家で、いわゆる三文菓子が少しに、余り渋くもない茶よりほか何を提供するのでもないが、重宝になっている家なのだ。自分も釣の往復りに立寄って顔馴染になっていたの・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・そのあとをシナ人の車夫が空車をしぼって坂をおりて行く。 船へ帰ると二等へ乗り込むシナ人を見送って、おおぜいの男女が桟橋に来ていた。そしていかにもシナ人らしくなごりを惜しんでいるさまに見えた。中には若い美しい女もいた。そしてハンケチや扇に・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・第三のになると降りる人の降りたあとはまるでがら明きの空車になる事も決して珍しくない。 こういうすいた車が数台つづくと、それからまた五分あるいは十分ぐらいの間はしばらく車がと絶える。その間に停留所に立つ人の数はほぼ一定の統計的増加率をもっ・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
・・・道の上には長屋の子供が五、六人ずつ群をなして遊んでいる。空車を曳いた馬がいかにも疲れたらしく、鬣を垂れ、馬方の背に額を押しつけながら歩いて行く。職人らしい男が二、三輛ずつ自転車をつらね高声に話しながら走り過る……。 道は忽ち静になって人・・・ 永井荷風 「元八まん」
十二月二十七日 湯ヶ島へ出立。 すっかり仕度が出来上ったが余り時間がない。俥でことこと行くよりはと、フダーヤ老松町の通へ空車を捕えに出た。早朝なのでなし。かえって、一台だけ来た人力車にのって先へ出かけ、自分二十分も待たされて出発。列・・・ 宮本百合子 「湯ヶ島の数日」
出典:青空文庫