・・・どうかすると、兄は悶えながら起きあがって、痩せた膝に両手を突きながら、体をゆすりゆすり苦痛を怺えていた。「人の知らない苦労するよ」 我慢づよい兄の口からそう言われると、道太は自分の怠慢が心に責められて、そう遠いところでもないのに、な・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・その題も『黄昏』と命じて、発端およそ百枚ばかり書いたのであるが、それぎり筆を投じて草稿を机の抽斗に突き込んでしまった。その後現在の家に移居してもう四、五年になる。その間に抽斗の草稿は一枚二枚と剥ぎ裂かれて、煙管の脂を拭う紙捻になったり、ラン・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・西の空に見えた夕月がだんだん大きくなって東の空から蜀黍の垣根に出るようになって畑の西瓜もぐっと蔓を突きあげてどっしりと黄色な臀を据えた。西瓜は指で弾けば濁声を発するようになった。彼はそれを遠い市場に切り出した。昼間は壻の文造に番をさせて自分・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 筆を擱いて、そっと出て見ると、文鳥は自分の方を向いたまま、留り木の上から、のめりそうに白い胸を突き出して、高く千代と云った。三重吉が聞いたらさぞ喜ぶだろうと思うほどな美い声で千代と云った。三重吉は今に馴れると千代と鳴きますよ、きっと鳴・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・私はこう怒鳴ると共に、今度は固めた拳骨で体ごと奴の鼻っ柱を下から上へ向って、小突き上げた。私は同時に頭をやられたが、然し今度は私の襲撃が成功した。相手は鼻血をタラタラ垂らしてそこへうずくまってしまった。 私は洗ったように汗まみれになった・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・纈り腮をわざと突き出したほど上を仰き、左の牙歯が上唇を噛んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見える。懐手をして肩を揺すッて、昨日あたりの島田髷をがくりがくりとうなずかせ、今月一日に更衣をしたばかりの裲襠の裾に廊下を拭わせ、大跨にしかも急・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・石塔の石を突きころがしたナ。失敬千万ナ。こんな奴が居るから幽霊に出たくなるのだ。ちょっと幽霊に出てあいつをおどかしてやろうか。しかし近頃は慾の深い奴が多いから、幽霊が居るなら一つふんじばって浅草公園第六区に出してやろうなんていうので幽霊捕縛・・・ 正岡子規 「墓」
・・・さあ僕等はもう黒雲の中に突き入ってまわって馳けたねえ、水が丁度漏斗の尻のようになって来るんだ。下から見たら本当にこわかったろう。『ああ竜だ、竜だ。』みんなは叫んだよ。実際下から見たら、さっきの水はぎらぎら白く光って黒雲の中にはいって、竜・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 私の膝に抱かれたまま、私の髪の毛をいじる事が大変すきで胸の中に両手を突き入れる事などは亡くなる少し前からちょくちょくして居た。 小さい丸い手で髪をさすったり顔をいじったりした揚句首にその手をからめて、自分の小さい躰に抱きしめて呉れ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 彼女は緞帳の襞に顔を突き当て、翻るように身を躍らせて、広間の方へ馳け出した。ナポレオンは明らかに貴族の娘の侮辱を見た。彼は彼の何者よりも高き自尊心を打ち砕かれた。彼は突っ立ち上ると大理石の鏡面を片影のように辷って行くハプスブルグの娘の・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫