・・・暖かい湯気が立上がる。しおれた白百合やカーネーションが流しの隅に捨ててある。百合の匂。カーネーションの匂。洗濯する人。お化粧する人。 小使が流しの上へ上がって、長い棒を押し立てて、何かゴボゴボ音を立てている。棒の先にゴムの椀のようなもの・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・ 濛々と天地を鎖す秋雨を突き抜いて、百里の底から沸き騰る濃いものが渦を捲き、渦を捲いて、幾百噸の量とも知れず立ち上がる。その幾百噸の煙りの一分子がことごとく震動して爆発するかと思わるるほどの音が、遠い遠い奥の方から、濃いものと共に頭の上・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子の方をふり返って見た。けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかった。 代を払って表へ出ると、門口の左側に、小判なりの桶が五つばかり並べてあって、その中に赤い金魚や、斑入の金魚・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・彼はやはり静かに立ち上がると深谷の跡をつけた。 廊下に片っ方の眼だけ出すと、深谷が便所のほうへ足音もなく駆けてゆく後ろ姿が見えた。「ハテナ。やっぱり下痢かな」 と思ううちに、果たして深谷は便所に入った。が安岡は作りつけられたよう・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 一同が立ち上がる時、小川の足元は大ぶ怪しかった。 主人が小川に言った。「さっきの話は旧暦の除夜だったと君は云ったから、丁度今日が七回忌だ。」 小川は黙って主人の顔を見た。そして女中の跡に附いて、平山と並んで梯子を登った。 ・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫