・・・そして、それでもなお実は、吉弥がその両親を見送りに行った帰りに、立ち寄るのが本当だろうと、外出もしないで待っていたか、吉弥は来なかった。昼から来るかとの心待ちも無駄であった。その夜もとうとう見えなかった。 そのまたあくる日も、日が暮れる・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・初めて会った時だってわざわざ訪ねて行ったのではなかったが、何かの用で千駄木に行ったが、丁度夏目さんの家の前を通ったから立寄ることにした。一体私自身は性質として初めて会った人に対しては余り打ち解け得ない、初めての人には二、三十分以上はとても話・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・ 綱雄といえば旅行先から、帰りがけにここへ立ち寄ると言ってよこしたが、お前はさぞ嬉しかろうなとからかい出す善平、またそのようなことを、もう私は存じませぬ、と光代はくるりと背後を向いて娘らしく怒りぬ。 善平は笑いながら、や、しかし綱雄・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・少女は旅人が立ち寄る小さき茶屋の娘なりき、年経てその家倒れ、家ありし辺りは草深き野と変わりぬ。されど路傍なる梅の老木のみはますます栄えて年々、花咲き、うまき実を結べば、道ゆく旅客らはちぎりて食い、その渇きし喉をうるおしけり。されどたれありて・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・そしてその夜店と夜店の間々に雪が降っているので立ち寄るものはすくなかった。が二、三カ所人集りがあった。その輪のどれからか八木節の「アッア――ア――」と尻上りに勘高くひびく唄が太鼓といっしょに聞えてきた。乗合自動車がグジョグジョな雪をはね飛ば・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・途中、亀井さんのお宅に立ち寄る。主人の田舎から林檎をたくさん送っていただいたので、亀井さんの悠乃ちゃんに差し上げようと思って、少し包んで持って行ったのだ。門のところに悠乃ちゃんが立っていた。私を見つけると、すぐにばたばたと玄関に駈け込んで、・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・平田理学士は、先年、某停車場の切符売り場の窓口に立ち寄る人の数に関する統計的調査に普通の統計理論を応用して、それが相当よく当てはまる事を確かめた。最近に東京帝国大学地震学科学生某氏は市内二か所の街上における自動車の往復数に関する統計について・・・ 寺田寅彦 「物質群として見た動物群」
・・・窓際に立寄ると、少し腰を屈めなければ、女の顔は見られないが、歩いていれば、窓の顔は四、五軒一目に見渡される。誰が考えたのか巧みな工風である。 窓の女は人の跫音がすると、姿の見えない中から、チョイトチョイト旦那。チョイトチョイト眼鏡のおじ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・道端に竹と材木が林の如く立っているのに心付き、その陰に立寄ると、ここは雪も吹込まず風も来ず、雪あかりに照された道路も遮られて見えない別天地である。いつも継母に叱られると言って、帰りをいそぐ娘もほっと息をついて、雪にぬらされた銀杏返の鬢を撫で・・・ 永井荷風 「雪の日」
出典:青空文庫