・・・……「どうです、この銅版画は。築地居留地の図――ですか。図どりが中々巧妙じゃありませんか。その上明暗も相当に面白く出来ているようです。」 子爵は小声でこう云いながら、細い杖の銀の握りで、硝子戸棚の中の絵をさし示した。私は頷いた。雲母・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・は芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か何かへ通っていた。が、土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊りに行った。「初ちゃん」はこう云う外出の時にはまだ明治二十年代でも今めかしい洋服を着ていたのであろう。僕は・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・――(何とかじゃ築地へ帰――何の事だかわかりませんがね、そういって番頭を威かせ、と言いつかった通り、私が使に行ったんです。冷汗を流して、談判の結果が三分、科学的に数理で顕せば、七十と五銭ですよ。 お雪さんの身になったらどうでしょう。じか・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ この岡惚れの対象となって、江戸育ちだというから、海津か卵であろう、築地辺の川端で迷惑をするのがお誓さんで――実は梅水という牛屋の女中さん。……御新規お一人様、なまで御酒……待った、待った。そ、そんなのじゃ決してない。第一、お客に、むら・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 手紙のついでで知っておいでだろうが、私の住んでいる処と、京橋の築地までは、そうだね、ここから、ずっと見て、向うの海まではあるだろう。今度、当地へ来がけに、歯が疼んで、馴染の歯科医へ行ったとお思い。その築地は、というと、用たしで、歯科医・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・そして宿所がきまるや、さっそく築地何町何番地、何の某方という桂の住所を訪ねた。この時二人はすでに十九歳。 下 午後三時ごろであった。僕は築地何町を隅から隅まで探して、ようやくのことで桂の住家を探しあてた。容易に分から・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・草の庵でも、コンクリート建築の築地本願寺でも、アパートの三階でも信仰の身をおくことは随意である。そういう形の上に信仰の心があるのではない。モダンが好みならどんな超モダンでもいい、ただその中に包まれた信仰の心がないのがいけないのである。薄っぺ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・暮れの築地小劇場で「子供の日」のあったおりに、たしか「そら豆の煮えるまで」に出て来る役者から見て来たらしい身ぶり、手まねが始まった。次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。「オイ、とうさんが見てるよ。」・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「新七、お前さんは築地まであたしを送っておくれ。今度出て来たついでに、従妹のところへも寄って行きたいから」「お母さん、そうしますか」 料理場から食堂への通い口に設けてある帳場のところに立って、お三輪は新七とこんな言葉をかわした。・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・再会を約して彼は築地行の電車に乗った。 友達に別れると、遽然相川は気の衰頽を感じた。和田倉橋から一つ橋の方へ、内濠に添うて平坦な道路を帰って行った。年をとったという友達のことを笑った彼は、反対にその友達の為に、深く、深く、自分の抱負を傷・・・ 島崎藤村 「並木」
出典:青空文庫