・・・当時は今ほど東京風にならず、軒には糸瓜なども下っていたそうですから、女も皆田舎じみていたことでしょう。が、お松は「青ペン」でもとにかく第一の美人になっていました。もっともどのくらいの美人だったか、それはわたしにはわかりません。ただ鮨屋に鰻屋・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・水に縁の切れた糸瓜が、物干の如露へ伸上るように身を起して、「――御連中ですか、お師匠……」 と言った。 薄手のお太鼓だけれども、今時珍らしい黒繻子豆絞りの帯が弛んで、一枚小袖もずるりとした、はだかった胸もとを、きちりと紫の結目で・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・日蔭はどこだって朝から暗うございまする、どうせあんな萌の糸瓜のような大きな鼻の生えます処でございますもの、うっかり入ろうものなら、蚯蚓の天上するのに出ッくわして、目をまわしませんければなりますまいではございませんか。」と、何か激したことのあ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・「主人も糸瓜もあるものか、吾は、何でも重隆様のいいつけ通りにきっと勤めりゃそれで可いのだ。お前様が何と謂ったって耳にも入れるものじゃねえ。」「邪険も大抵にするものだよ。お前あんまりじゃないかね。」 とお通は黒く艶かな瞳をもって老・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・実は、婆々どのの言うことに――やや親仁どのや、ぬしは信濃国東筑摩郡松本中での長尻ぞい……というて奥方、農産会に出た糸瓜ではござらぬぞ。三杯飲めば一時じゃ。今の時間で二時間かかる。少い人たち二人の処、向後はともあれ、今日ばかりは一杯でなしに、・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・しかもお提灯より見っこのねえ闇夜だろうじゃねえか、風俗も糸瓜もあるもんか。うぬが商売で寒い思いをするからたって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。ん! 寒鴉め。あんなやつもめったにゃねえよ、往来の少ない処なら、昼だってひよぐるぐらいは大目に見・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・「失態も糸瓜もない。世間の奴らが何と言ったって……二人の幸福は二人で作る、二人の幸福は二人で作る、他人の世話にはならない」 こう独言を言いつつ省作は感に堪えなくなって、起って座敷じゅうをうろうろ歩きをするのである。省作はもう腹の中の・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・椿岳は江戸末季の廃頽的空気に十分浸って来た上に、更にこういう道義的アナーキズム時代に遭逢したのだから、さらぬだに世間の毀誉褒貶を何の糸瓜とも思わぬ放縦な性分に江戸の通人を一串した風流情事の慾望と、淫蕩な田舎侍に荒らされた東京の廃頽気分とが結・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・に前身をそらして、櫛の背を歯に銜え、両手を高く、長襦袢の袖口はこの時下へと滑ってその二の腕の奥にもし入黒子あらば見えもやすると思われるまで、両肱を菱の字なりに張出して後の髱を直し、さてまた最後には宛ら糸瓜の取手でも摘むがように、二本の指先で・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・同時に――ああ子規は死んでしまった。糸瓜のごとく干枯びて死んでしまった。――提灯はいまだに暗い軒下にぶらぶらしている。余は寒い首を縮めて京都を南から北へ抜ける。 車はかんかららんに桓武天皇の亡魂を驚かし奉って、しきりに馳ける。前なる居士・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
出典:青空文庫