・・・その時は糸織の羽織か何か著て、髪を油で光らせて、甚大家らしい風格を備えていた。それから新思潮が発刊して一年たった年の秋、どこかで皆が集まって、飯を食った時にも会ったと云う記憶がある。「玉突場の一隅」を褒めたら、あれは左程自信がないと云ったの・・・ 芥川竜之介 「豊島与志雄氏の事」
一 襖を開けて、旅館の女中が、「旦那、」 と上調子の尻上りに云って、坐りもやらず莞爾と笑いかける。「用かい。」 とこの八畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しが・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・ 十 待乳屋の娘菊枝は、不動の縁日にといって内を出た時、沢山ある髪を結綿に結っていた、角絞りの鹿の子の切、浅葱と赤と二筋を花がけにしてこれが昼過ぎに出来たので、衣服は薄お納戸の棒縞糸織の袷、薄紫の裾廻し、唐繻子の襟を掛て・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・年は十九か、二十にはまだなるまいと思われるが、それにしても思いきってはでな下町作りで、頭は結綿にモール細工の前まえざし、羽織はなしで友禅の腹合せ、着物は滝縞の糸織らしい。「ねえ金さん、それならお気に入るでしょう?」とお光は笑いながら言っ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 糸織の羽織に雪駄ばきの商人が臘虎の襟巻した赧ら顔の連れなる爺を顧みた。萌黄の小包を首にかけた小僧が逸早く飛出して、「やア、電車の行列だ。先の見えねえほど続いてらア。」と叫ぶ。 車掌が革包を小脇に押えながら、帽子を阿弥陀に汗をふきふ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 平田は私立学校の教員か、専門校の学生か、また小官員とも見れば見らるる風俗で、黒七子の三つ紋の羽織に、藍縞の節糸織と白ッぽい上田縞の二枚小袖、帯は白縮緬をぐいと緊り加減に巻いている。歳は二十六七にもなろうか。髪はさまで櫛の歯も見えぬが、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 紋八二重の羽織に糸織を着て居た。 気は利きそうであった。 女を置いて帰って行く時、給金はどうでも好いが、 家柄も相当でございますから嫁にもあんまりな所へやりたくないって申して居りますから少しずつは進歩して行く様に御心が・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
出典:青空文庫