・・・ 促して尋ねると、意外千万、「そのお金が五百円、その晩お手箪笥の抽斗から出してお使いなさろうとするとすっかり紛失をしていたのでございます、」と句切って、判事の顔を見て婆さんは溜息を吐いたが、小山も驚いたのである。 赤羽停車場の婆・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・自分は今これを冷やかに書くが、机の抽斗を開けてみて百円の紙包が紛失しているのを知った時は「オヤ!」と叫けんだきり容易に二の句が出なかった。「お前この抽斗を開けや為なかったか」「否」「だって先刻入れて置いた寄附金の包みが見えないよ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・誰れかゞ金を紛失した場合、殊更、帳尻を合わしていない者に嫌疑が掛って来た。帳尻の合っていない者が盗んだとは、断定することは出来ない。それは弱点ではあった。が、盗んだ者だという理由にはならなかった。けれども、実際には、帳尻を合わしていない、投・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・また掏摸にすられた中ばあさんが髪をくくりながら鼻歌を歌っているうちに手さげの中の財布の紛失を発見してけたたましい叫び声を立てるが、ただそれだけである。これもアメリカトーキーだとここでなんとか一つ取っておきのせりふを言わせて、そうしてアメリカ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・四月十七日 きのう紛失したせんたく袋がもどって来た。室のボーイの話ではせんたく屋のシナ人が持っていたのだそうな。四月十八日 顔を洗って甲板へ出たらコロンボへ着いていた。T氏と西村氏と三人で案内者を雇うて馬車で見物に出かけた。・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・後に聞けば島田家では蔵書の紛失に心づいてから市中の書肆へ手を廻し絶えず買戻しをしていたというはなしである。 森先生の渋江抽斎の伝に、その子優善が持出した蔵書の一部が後年島田篁村翁の書庫に収められていた事が記されてある。もし翰が持出した珍・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・ 小さい金入れの紛失から、彼等の蒙った金銭上の損害は僅少であった。中には、失望したろうと思われる位の小銭しか入って居なかった。ただ、机や用箪笥の鍵が共に無くなったのは不便であった。其とても、世間に同型のものが無いわけではない。――愛・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・中年の女の声で、余り甲高にとりみだしておろおろ物を云っているので、何ごとかとつい注意をひかれたら、その電話は子供の先生へ母親が何か紛失物の申しわけをしているのであった。くりかえし哀願するように、どうぞもうこの一週間だけ御容赦下さいませ。・・・ 宮本百合子 「新入生」
・・・ それに足跡もなければ、どの部屋にも紛失物がないので、何が何だか分らない様な心持になって仕舞った。私の部屋の彼那ぼろ雨戸でさえちゃんとして居て、中に一杯ちらかって居る紙屑も本も、玩具も、何一つとして位置さえ変って居ない。「入るにして・・・ 宮本百合子 「盗難」
・・・ただ小姓たちの言うのを聞けば、蜂谷は今度紛失した大小を平生由緒のある品だと言って、大切にしていたそうである。またその大小を甚五郎がふだんほめていたそうである。 甚五郎の行方は久しく知れずにて、とうとう蜂谷の一週忌も過ぎた。ある日甚五郎の・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
出典:青空文庫