・・・……天麸羅のあとで、ヒレの大切れのすき焼は、なかなか、幕下でも、前頭でも、番附か逸話に名の出るほどの人物でなくてはあしらい兼ねる。素通りをすることになった。遺憾さに、内は広し、座敷は多し、程は遠い……「お誓さん。」 黒塀を――惚れた・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 宗吉は、しかし、その長屋の前さえ、遁隠れするように素通りして、明神の境内のあなたこなた、人目の隙の隅々に立って、飢さえ忘れて、半日を泣いて泣きくらした。 星も曇った暗き夜に、「おかみさん――床屋へ剃刀を持って参りましょう。つい・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 帰って来たのかとはいって行くと、「素通りする人がおますかいな。あんたはノッポやさかい、すぐ見つかる」 首だけ人ごみの中から飛び出ているからと、「千日堂」のお内儀さんは昔から笑い上戸だった。「あはは……。ぜんざい屋になったね・・・ 織田作之助 「神経」
・・・けれど、やはり肝心の家の門はくぐらず、せかせかと素通りしてしまう。そしてちょっと考えて、神楽坂の方へとぼとぼ……、その坂下のごみごみした小路のなかに学生相手の小質屋があり、今はそこを唯一のたのみとしているわけだが、しかし質種はない。いろいろ・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ 種吉では話にならぬから素通りして路地の奥へ行き種吉の女房に掛け合うと、女房のお辰は種吉とは大分違って、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振りが余って腰掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・この骨組みの鉄筋コンクリート構造に耐え得ずして、直ちに化粧煉瓦を求め、サロンのデコレーションを追うて、文芸の門はくぐるが、倫理学の門は素通りするという青年学生が如何に多いことであろう。しかしすぐれた文学者には倫理学的教養はあるものである。人・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・その後のブルジョア文学は、一二の作品で農民を題材としていることがあっても、ほとんど大部分が主として、小ブルジョア層や、インテリゲンチャにチヤホヤして、農民をば、一寸、横目でにらんだだけで素通りしてしまった。それはブルジョア文学としては当然で・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・るのだ、あの、昔の紙治のおさんではないけれども、 女房のふところには 鬼が棲むか あああ 蛇が棲むか とかいうような悲歎には、革命思想も破壊思想も、なんの縁もゆかりも無いような顔で素通りして、そうして女房ひとりは取り残さ・・・ 太宰治 「おさん」
・・・少しわかりかけたら、あとはドライアイスが液体を素通りして、いきなり濛々と蒸発するみたいに見事な速度で理解しはじめた。もとより私は、津軽の人である。川部という駅で五能線に乗り換えて十時頃、五所川原駅に着いた時には、なんの事はない、わからない津・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・すっと部屋を素通りして、次の間に行ってしまった。顔色も悪く、ぎょっとするほど痩せて、けわしい容貌になっていた。次の間にも母の病気見舞いの客がひとり来ているのだ。兄はそのお客としばらく話をして、やがてその客が帰って行ってから、「常居」に来て、・・・ 太宰治 「故郷」
出典:青空文庫