・・・アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしを、その死の確報に接し、ものも言わずに浴場から躍り出て、濡れた裸体に白布一枚をまとい、息ひきとった婿君の部屋のまえを素通りして、風の如く駈け込んでいった部屋は、ネロの部屋であった。三歳のネロをひしと抱きし・・・ 太宰治 「古典風」
・・・は、素通りして走りそうな気がしてならない。 私は、やはり、「文化」というものを全然知らない、頭の悪い津軽の百姓でしか無いのかも知れない。雪靴をはいて、雪路を歩いている私の姿は、まさに田舎者そのものである。しかし、私はこれからこそ、この田・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・私は、地下道を素通りしただけで、そのような戦慄を、本気に感じたのでした。「美男子の件はとに角、そのほかに何か発見出来ましたか。」 と問われて私は、「煙草です。あの美男子たちは、酒に酔っているようにも見えなかったが、煙草だけはたい・・・ 太宰治 「美男子と煙草」
・・・鷹の白羽の矢が次郎兵衛の家の屋根を素通りしてそのおむかいの習字のお師匠の詫住いしている家の屋根のぺんぺん草をかきわけてぐさとつきささったのである。お師匠はかるがるとは返事をしなかった。二度、切腹をしかけては家人に見つけられて失敗したほどであ・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・少し詳しく立止まって見たいと思う者があっても、大勢に追従して素通りをしてしまわなければならない。吾人が学校で学問を教わるのは丁度このようなものである。これはつまり大勢の人間に同時に大体を見せるためには最も適当で有効な方法には相違ない。しかし・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
・・・故野口英世博士が狂人の脳髄の中からスピロヘータを検出したときにも、二百個のプレパラートを順々に見て行って百九十何番目かで始めてその存在を認め、それから見直してみると、前に素通りした幾つもの標本にもちゃんと同じもののあるのが見つかった。 ・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・ 美術院はほとんど素通りした。どちらを見ても近寄ってよく見ようというような誘惑を感じるものはほとんどなかった。絵でも人間でも一と目で先ず引き付けられないようなものにはやはり何か足りないものがあるかと思う。美術批評家でも何でもない自分等は・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・ 熊本は、寝て素通りしたから何も知らず、長崎へゆくと、更に人々の気持、自然の雰囲気が異なって来る。 そういう方面だけ思い出しても、九州の旅行は楽しく、たっぷりしたものであった。〔一九二六年六月〕・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
・・・並木道がひろくなって、片隅に子供たちの橇遊び場が出来ているようなところへ来かかろうものなら、子供等がおふくろや父親を素通りはさせない。親は押し役だ。子供たちは歓声をあげ、アーク燈と凍った雪の上で仔熊のようにころがりまわる。親たちは、小脇に勤・・・ 宮本百合子 「砂遊場からの同志」
・・・が、妙なもので、素通りの見物人が通る大路はきっちり定っているものだ。その庭の白く乾いた道の上こそ、草履の端から立つ埃がむっとしておれ、たった一歩、例えばまあ三月堂から男山八幡へ行く道、三笠山へ出る道を右にそれて草原に出て見る、そこで人影はも・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
出典:青空文庫