・・・健二と留吉とは夢中になって、丘の細道を家ごみの方へ馳せ降りて行った。 三人の執達吏のうち、一人は、痩せて歩くのも苦しそうな爺さんだった。他の二人はきれいな髭を生した、疳癪で、威張りたがるような男だった。 彼等が最初に這入った小屋には・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 右の踏みならされた細道を進んでいる永井がその時、低声に云った。ロシアの女を引っかけるのに特別な手腕を持っている永井の声はいくらか笑を含んでいた。 栗本は、永井が銃をさし出した方を見た。 靄に蔽われて、丘の斜面に木造の農家が二軒・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・暗い竹藪のかげの細道について、左手に小高い石垣の下へ出ると、新しい二階建ての家のがっしりとした側面が私の目に映った。新しい壁も光って見えた。思わず私は太郎を顧みて、「太郎さん、お前の家かい。」「これが僕の家サ。」 やがて私はその・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 坂に成った細道を上ると、そこが旧士族地の町はずれだ。古い屋敷の中には最早人の住まないところもある。破れた土塀と、その朽ちた柱と、桑畠に礎だけしか残っていないところもある。荒廃した屋敷跡の間から、向うの方に小諸町の一部が望まれた。「・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ あかつき、医師のもとへ行く細道。きっと田中氏の歌を思い出す。このみちを泣きつつわれの行きしこと、わが忘れなば誰か知るらむ。医師に強要して、モルヒネを用う。 ひるさがり眼がさめて、青葉のひかり、心もとなく、かなしかった。丈夫になろう・・・ 太宰治 「悶悶日記」
・・・子供や女中などはまだ寝ている間に、宿の後ろの丘の細道や、付近の渓流のほとりを歩いて何かしら二三種の草の花を抜いて来る。そうして露台のデッキチェアーに仰向けになって植物図鑑をゆるゆる点検しながら今採って来た品種のアイデンチフィケーションに取り・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・ 花下の細道をたどって先生の門下に集まった多くの若い人々の心はおそらく皆自分と同じようなものであったろうと思われる。それで自分のここに書いたこの取り止めもない追憶が、さもさも自分だけで先生を独占していたかのように読者に見えるとすれば、そ・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・この殿堂への一つの細道、その扉を開くべき一つの鍵の、おぼろげな、しかも拙な言葉で表現された暗示としてのみ、この一編の正当な存在の意義を認容される事ができれば著者としてむしろ望外の幸いである。 自分はできるだけ根拠なき臆断と推理を無視する・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落ちかかるやうな三味の音を仰いで聞・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・松や杉は落付いているのに恐ろしい灰色雲の下で竹がざわめくこと――このような天候の時、一人ぼっちでこの近傍によくある深い細道ばかりの竹藪を通ったら、どんなに神経が動乱するだろう。ドーッと風が吹きつける。高さ三十尺もある孟宗竹の藪が一時に靡く。・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
出典:青空文庫