・・・ ヘンに目立つような真四角な風呂敷包みを三等車の網棚に載せて、その下の窓ぎわに腰かけながら、私たちはこう囁き合ったりした。不憫なほど窶れきった父の死にぎわの面影が眼に刻まれていたが、汽車に乗りこんで私たちはややホッとした気持になった。も・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ 仕方なく、アンブレラとお道具を、網棚に乗せ、私は吊り革にぶらさがって、いつもの通り、雑誌を読もうと、パラパラ片手でペエジを繰っているうちに、ひょんな事を思った。 自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ふり仰ぐと、それまで私のうしろに立っていたらしい若い女のひとが、いましも腕を伸ばして網棚の上の白いズックの鞄をおろそうとしているところでした。たくさんの蒸しパンが包まれているらしい清潔なハトロン紙の包みが、私の膝の上に載せられました。私は黙・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・あるいは室内のトランクが汽車の網棚のトランクに移り変わるような種類である。ところが、連句ではこれに似たことがしばしば行なわれる。たとえば「僧やや寒く寺に帰るか」「猿引きの猿と世を経る秋の月」では僧の姿が猿引きの猿にオーバーラップ的に推移する・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ほとんど身動きもできないほどで、出る時に出られるかどうかと思うくらいであった。網棚に絵の具箱をのせる空所もなかったのでベンチにのせかけて持っているうちに、誤って取り落とすと隣に立っていた老人の足に当たった。老人はちょっとおこったような顔を見・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・それは、網棚にでも上りたいほど、乗り込んでいた。 その時はもう、彼の顔は無髭になっていた。 彼は、座席へバスケットを置くと、そのまま食堂車に入った。 ビールを飲みながら、懐から新聞紙を出して読み始めた。新聞紙は、五六種あった。彼・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・その人は、ひげの中でかすかに微笑いながら荷物をゆっくり網棚にのせました。ジョバンニは、なにか大へんさびしいようなかなしいような気がして、だまって正面の時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、硝子の笛のようなものが鳴りました。汽車はもう、しず・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
洋傘だけを置いて荷物を見にプラットフォームへ出ていた間に、児供づれの女が前の座席へ来た。反対の側へ移って、包みを網棚にのせ、空気枕を膨らましていると、「ああ、ああ、いそいじゃった!」 袋と洋傘を一ツの手に掴んだ肥っ・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・ そう思って、新刊書のおかれている網棚の方へ目を移そうとしたとき、入口わきの凹みに、横顔をこちらへ向けて小卓に向い、何か読んでいる一人の司書の老人に注意をひかれた。黒い上っぱりを着ている。袖口がくくられてふくらんでいる。その横顔の顎の骨・・・ 宮本百合子 「図書館」
出典:青空文庫