・・・けれども半之丞に関する話はどれも多少可笑しいところを見ると、あるいはあらゆる大男並に総身に智慧が廻り兼ねと言う趣があったのかも知れません。ちょっと本筋へはいる前にその一例を挙げておきましょう。わたしの宿の主人の話によれば、いつか凩の烈しい午・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・実際その時は総身の毛穴へ、ことごとく風がふきこんだかと思うほど、ぞっと背筋から寒くなって、息さえつまるような心もちだったのでしょう。いくら声を立てようと思っても、舌が動かなかったと云う事でした。が、幸その眼の方でも、しばらくは懸命の憎悪を瞳・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・が、これを見ました老爺は、やがて総身に汗をかいて、荷を下した所へ来て見ますと、いつの間にか鯉鮒合せて二十尾もいた商売物がなくなっていたそうでございますから、『大方劫を経た獺にでも欺されたのであろう。』などと哂うものもございました。けれども中・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ ト突出た廂に額を打たれ、忍返の釘に眼を刺され、赫と血とともに総身が熱く、たちまち、罪ある蛇になって、攀上る石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、頭に映す太陽は、血の色して段に流れた。 宗吉はかくてまた明神の御手洗に、更に、氷に・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・巌路へ踏みはだかるように足を拡げ、タタと総身に動揺を加れて、大きな蟹が竜宮の女房を胸に抱いて逆落しの滝に乗るように、ずずずずずと下りて行く。「えらいぞ、権太、怪我をするな。」 と、髯が小走りに、土手の方から後へ下りる。「俺だって・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・とかいう言葉をもって織り出された幾節かの歌を聞きながら立っていますと、総身に、ある戦慄を覚えました。 それから牧師の祈りと、熱心な説教、そしてすべてが終わって、堂の内の人々一斉の黙祷、この時のしばしの間のシンとした光景――私はまるで別の・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・独りごちし時、総身を心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌もて心地よげに顔を摩りたり。いたく古びてところどころ古綿の現われし衣の、火に近き裾のあたりより湯気を放つは、朝の雨に霑いて、なお乾すことだに得ざりしなるべし。 あな心地よき火や。いい・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・大塚さんはハッと思って、見たような見ないような振をしながら、そのまま急ぎ足に通り過ぎたが、総身電気にでも打たれたように感じた。「おせんさん――」 と彼女の名を口中で呼んで見て、半町ほども行ってから、振返って見た。明るい黄緑の花を垂れ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。「ごめん下さい。大谷さん」 こんどは、ちょっと鋭い語調でした。同時に、玄関のあく音がして、「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」 と、はっきり怒っている声で言うのが聞え・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・寝床に寝たきりなのでございますが、それでも、陽気に歌をうたったり、冗談言ったり、私に甘えたり、これがもう三、四十日経つと、死んでゆくのだ、はっきり、それにきまっているのだ、と思うと、胸が一ぱいになり、総身を縫針で突き刺されるように苦しく、私・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
出典:青空文庫