・・・しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。何処へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。田舎のどこの小さな町でも、商人は・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・それだのに、私はあの人に経帷布を着せる代りに、セメント袋を着せているのですわ! あの人は棺に入らないで回転窯の中へ入ってしまいましたわ。 私はどうして、あの人を送って行きましょう。あの人は西へも東へも、遠くにも近くにも葬られているのです・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・其内外の趣意を濫用して、男子の戸外に奔走するは実業経営社会交際の為めのみに非ず、其経営交際を名にして酒を飲み花柳に戯るゝ者こそ多けれ。朝野の貴顕紳士と称する俗輩が、何々の集会宴会と唱えて相会するは、果して実際の議事、真実の交際の為めに必要な・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・しかし己は慰めという事を、ついぞ経験した事がない。ほんに世の中の人々は、一寸した一言をいうては泣き合ったり、笑い合ったりするもので、己のように手の指から血を出して七重に釘付にせられた門の扉を叩くのではない。一体己は人生というものについて何を・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・慶応三年の夏、始めて秩禄を受くるの人となりしもわずかに二年を経て明治二年の秋彼は神の国に登りぬ。曙覧が古典を究め学問に耽りしことは別に説くを要せず。貧苦の中にありて「机に千文八百文堆く載せ」たりという一事はこれを証して余りあるべし。その敬神・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・そこでさっそく、それを東京を経て本線シグナルつきの電信柱に返事をしてやりました。本線シグナルつきの電信柱はキリキリ歯がみをしながら聞いていましたが、すっかり聞いてしまうと、さあ、まるでばかのようになってどなりました。「くそっ、えいっ。い・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・日本の社会がこの先どうなって行くだろうかと訊かれて、簡単に答え得る人は、寧ろ今日の現実の裡で十分緻密な生活感情をもって複雑な日々の経験をとり入れている人であるとは云い難い実情である。現実は益々複雑な面を露出している。文学の歩みがその社会的相・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・この間の応答のありさまについてまたつらつら考えれば年を取ッた方はなかなか経験に誇る体があッて、若いのはすこし謹み深いように見えた。そうでしょう、読者諸君。 その内に日は名残りなくほとんど暮れかかッて来て雲の色も薄暗く、野末もだんだんと霞・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・二人の眼と眼を経だてている空間の距離には、ただ透明な空気だけが柔順に伸縮しているだけである。その二人の間の空気は死が現われて妻の眼を奪うまで、恐らく陽が輝けば明るくなり、陽が没すれば暗くなるに相違ない。二人にとって、時間は最早愛情では伸縮せ・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫