・・・ すると字を書いた罫紙が一枚、机の下に落ちているのが偶然彼の眼を捉えた。彼は何気なくそれを取り上げた。「M子に献ず。……」 後は洋一の歌になっていた。 慎太郎はその罫紙を抛り出すと、両手を頭の後に廻しながら、蒲団の上へ仰向け・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 受附のような所で、罫紙の帳面に名前を書いて、奥へ通ると、玄関の次の八畳と六畳と、二間一しょにした、うす暗い座敷には、もう大分、客の数が見えていた。僕は、人中へ出る時は、大抵、洋服を着てゆく。袴だと、拘泥しなければならない。繁雑な日本の・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・「この前の時間にも、に書いて消してをまた消して(颶風なり、と書いた、やっぱり朱で、見な…… しかも変な事には、何を狼狽たか、一枚半だけ、罫紙で残して、明日の分を、ここへ、これとしたぜ。」 と指す指が、ひッつりのように、びくりとし・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・それからしてその本が原稿になってこれを罫紙に書いてしまった。それからしてこれはモウじきに出版するときがくるだろうと思って待っておった。そのときに友人が来ましてカーライルに遇ったところが、カーライルがその話をしたら「実に結構な書物だ、今晩一読・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 刑務所の書信用紙というのは赤刷りの細かい罫紙で、後の注意という下の欄には――手紙ノ発受ハ親類ノ者ニノミコレヲ許スソノ度数ハ二カ月ゴトニ一回トス賞表ヲ有スル在所人ニハ一回ヲ増ス云々――こういった事項も書きこまれてある。そして手紙の日づけ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・しかし、なぜかなつかしくって、息子がインキで罫紙に書いた手紙を、鼻さきへ持って行って嗅いで見た。清三の臭いがしているように思われた。やがて為吉が帰ると、彼女はまっ先に手紙を見せた。 為吉は竈の前につくばって焚き火の明りでそれを見たが、老・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・その実を採って、わたしは草稿の罫紙を摺る顔料となすからである。梔子の実の赤く熟して裂け破れんとする時はその年の冬も至日に近い時節になるのである。傾きやすき冬日の庭に塒を急ぐ小禽の声を聞きつつ梔子の実を摘み、寒夜孤燈の下に凍ゆる手先を焙りなが・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・ 弱い弱い視力を凝らして、堅い字を、罫紙にならべて行くうちに眉間が劇しく痛んで、疲れのために、字のかくは離れ離れになり、字と字の間から、種々なまぼしい光線が出て、こちゃこちゃに入り混って、到底見分けて居られなくなった。 紙をまとめて・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 洋罫紙の綴じたのに、十月――日と日附けをして書きながら、彼女は、カアッと眩しいように明るかった自分の上に、また暗い、冷たい陰がさして来るのを感じた。 すぐよかに、いみじかれ 我が乙女子よ……。 声高な独唱につれて・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・初のは半紙の罫紙であったが、こん度のは紫板の西洋紙である。手の平にべたりと食っ附く。丁度物干竿と一しょに蛞蝓を掴んだような心持である。 この時までに五六人の同僚が次第に出て来て、いつか机が皆塞がっていた。八時の鐸が鳴って暫くすると、課長・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫