・・・もとより彼らは、当時の偶像の遺物を我々が芸術品として鑑賞するがごとく、ただ美的鑑賞の対象として偶像に対したのではないが、しかし無意識の内にも常に偶像の美的魅力から逃れる事はできなかったであろう。百済王が始めて釈迦銅像を献じた時、それを見た我・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
・・・もっと他の美的な、道義的な宗教的な、さまざまな芽に対しても、十分のびるだけの滋養を与えなくてはなりません。時には残忍とか狡猾とか盗心とかいうものに対してまでも滋養を与えなくてはならないかも知れません。で、青春の時期に最も努むべきことは、日常・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
・・・さらに進んで美的価値以外の価値を問題とする時にも、同じ事は言えるであろう。しからば人間において感ぜられる一切の価値は、喜びも苦しみも悲しみも、すべて心の所産であって自然のものではない。この考えをもって「人類」を意味づける時、それは初めて明白・・・ 和辻哲郎 「『劉生画集及芸術観』について」
・・・一人の遊冶郎の美的生活は家庭の荒寥となり母の涙となり妻の絶望となる。冷たき家庭に生い立つ子供は未来に希望の輝きがない。また安逸に執着する欲情を見よ。勉強するはいやである。勉強を強うる教師は学生の自負と悦楽を奪略するものである。寄席にあるべき・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫