・・・お絹は起きあがってその反物を持ちだしながら、「わたし一反だけ羽織にしようかと思って。やがて大阪へ行かんならんさかえ。どっちも四十円がらみのもんや」 それは色のくすんだ、縞目もわからないような地味なものであった。「こんな地味なもの著る・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・深水も工場がえりで弁当箱をもっているが、絽羽織などひっかけている。彼女は――頭髪に白いバラのかんざしをさして、赤い弁当風呂敷を胸におしつけている――それきりしか三吉には見定められなかった。「こっちがいいでしょう」 深水がベンチのちり・・・ 徳永直 「白い道」
・・・徳川幕府が仏蘭西の士官を招聘して練習させた歩兵の服装――陣笠に筒袖の打割羽織、それに昔のままの大小をさした服装は、純粋の洋服となった今日の軍服よりも、胴が長く足の曲った日本人には遥かに能く適当していた。洋装の軍服を着れば如何なる名将といえど・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ 羽織を干して貰って、足駄を借りて奥に寝ている御父っさんには挨拶もしないで門を出る。うららかな上天気で、しかも日曜である。少々ばつは悪かったようなものの昨夜の心配は紅炉上の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇がるばかり嬉しい。神楽坂ま・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・さて、彼は、夏羽織に手を通しながら、入口の処で押し合っている、人混みの中へ紛れ込んだ。 旦那の眼四つは、彼を見たけれど、それは別な人間を見た。彼ではなかった。「顔ばかり見てやがらあ。足や手を忘れちゃ駄目だよ。手にはバスケット、足には・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・結城紬の小袖に同じ羽織という打扮で、どことなく商人らしくも見える。 平田は私立学校の教員か、専門校の学生か、また小官員とも見れば見らるる風俗で、黒七子の三つ紋の羽織に、藍縞の節糸織と白ッぽい上田縞の二枚小袖、帯は白縮緬をぐいと緊り加減に・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
「こんなに揃って雑煮を食うのは何年振りですかなア、実に愉快だ、ハハー松山流白味噌汁の雑煮ですな。旨い、実に旨い、雑煮がこんなに旨かったことは今までない。も一つ食いましょう。」「羽織の紋がちっと大き過ぎたようじゃなア。」「何に大きいことは・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・そうだ。羽織へ包んで行け。」「うん。」私は羽織をぬいで草に敷きました。 理助はもう片っぱしからとって炭俵の中へ入れました。私もとりました。ところが理助のとるのはみんな白いのです。白いのばかりえらんでどしどし炭俵の中へ投げ込んでいるの・・・ 宮沢賢治 「谷」
・・・太ったもう一人の弟は被った羽織の下で四足で這いながら自分が本当の虎になったような威力に快く酔う。 そんなことをして遊ぶ部屋の端が、一畳板敷になっていた。三尺の窓が低く明いている。壁によせて長火鉢が置いてあるが、小さい子が三人並ぶゆと・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・と言って、家隷に羽織を取らせて切腹した。吉村甚太夫が介錯した。井原は切米三人扶持十石を取っていた。切腹したとき阿部弥一右衛門の家隷林左兵衛が介錯した。田中は阿菊物語を世に残したお菊が孫で、忠利が愛宕山へ学問に往ったときの幼な友達であった。忠・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫