・・・その乞食の人はどんなことがあっても駆けるということをしないで、ぼろを引きずったまま、のそりのそりと歩いていたから、それにとらえられる気づかいはなかったけれども、遠くの方からぼくたちのにげるのを見ながら、牛のような声でおどかすことがあった。ぼ・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・薙刀の鋭き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅の羅して、あま翔る鳥の翼を見よ。「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」「行って、どうします? 行って。」「もうこんな気になりまして・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・飛ぶと、宙を翔る威力には、とび退る虫が嘴に消えた。雪の蓑毛を爽に、もとの流の上に帰ったのは、あと口に水を含んだのであろうも知れない。諸羽を搏つと、ひらりと舞上る時、緋牡丹の花の影が、雪の頸に、ぼっと沁みて薄紅がさした。そのまま山の端を、高く・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・下駄はさっきから砂地を駆ける内に、いつの間にか脱いでしまって、跣足である。 何故かは知らぬが、この船にでも乗って助かろうと、片手を舷に添えて、あわただしく擦上ろうとする、足が砂を離れて空にかかり、胸が前屈みになって、がっくり俯向いた目に・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ 夕焼けのした晩方に、海の上を、電光がし、ゴロゴロと雷が鳴って、ちょうど馬車の駆けるように、黒雲がいくのが見られます。それを見ると、この町の人々は、「赤い姫君を慕って、黒い皇子が追っていかれる。」と、いまでも、いっているのでありまし・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・「僕は腹が痛いから、駆けることができない。」と、光治はいいました。「うそをつけ、腹なんか痛くないんだが、兵隊になるのがいやだから、そんなことをいうんだろう。よし、いやだなんかというなら、みんなでいじめるからそう思え。」「僕は・・・ 小川未明 「どこで笛吹く」
・・・ 代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、衣ずれの音、白粉の香いに胸を躍らしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。 停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長もその他の駅夫・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・では比較的むだな饒舌が少ないようであるが、ひとり旅に出た子供のあとを追い駆ける男が、途中で子供の歩幅とおとなのそれとの比較をして、その目の子勘定の結果から自分の行き過ぎに気がついて引き返すという場面がある。「子供の足でこれだけ、おとなの足で・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・恐ろしい風の強い日で空にはちぎれた雲が飛んでいるので、仰いで見ているとこの神像が空を駆けるように見えました。辻の広場には塵や紙切れが渦巻いていました。 広場に向かって Au canon という料理屋があって、軒の上に大砲の看板が載せてあ・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・他に累を及ぼさざるものが厳として存在していると云う事すら自覚しないで、真の世界だ、真の世界だと騒ぎ廻るのは、交通便利の世だ、交通便利の世だと、鈴をふり立てて、電車が自分勝手な道路を、むちゃくちゃに駆けるようなものである。電車に乗らなければ動・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫