・・・それを誰より先に気づいたのは、あの白い広間のまん中に、食さえ断って横わっている、今は老い果てた母蜘蛛であった。蜘蛛は糸の敷物の下に、いつの間にか蠢き出した、新らしい生命を感ずると、おもむろに弱った脚を運んで、母と子とを隔てている嚢の天井を噛・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・ 青年は老いた父の眼に、晩酌の酔を感じていた。「それは偉い軍人だがね、閣下はまた実に長者らしい、人懐こい性格も持っていられた。……」 少将はほとんど、感傷的に、将軍の逸話を話し出した。それは日露戦役後、少将が那須野の別荘に、将軍・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・年の老いつつあるのが明らかに思い知られた。彼はさきほどから長い間ぼんやりとそのさまを眺めていたのだ。「もう着くぞ」 父はすぐそばでこう言った。銀行から歳暮によこす皮表紙の懐中手帳に、細手の鉛筆に舌の先の湿りをくれては、丹念に何か書き・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ これ、佐藤継信忠信兄弟の妻、二人都にて討死せしのち、その母の泣悲しむがいとしさに、我が夫の姿をまなび、老いたる人を慰めたる、優しき心をあわれがりて時の人木像に彫みしものなりという。この物語を聞き、この像を拝するにそぞろに落・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・狼、のしのしと出でてうかがうに、老いさらぼいたるものなれば、金魚麩のようにて欲くもあらねど、吠えても嗅いでみても恐れぬが癪に障りて、毎夜のごとく小屋をまわりて怯かす。時雨しとしとと降りける夜、また出掛けて、ううと唸って牙を剥き、眼を光らす。・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・ああよくできたこれでおれはいつ死んでもえいと、父は口によろこばしき言をいったものの、しおしおとした父の姿にはもはや死の影を宿し、人生の終焉老いの悲惨ということをつつみ得なかった。そうと心づいた予は実に父の生前石塔をつくったというについて深刻・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・と、老いたるがんに向かって、いいました。「そのことは、私にもよくわかっている。だから、人間がめったにゆかないところを探すのだ。もっと遠い、寒い国へ向かって旅立ちをするのだ。私がまだ子供の時分、親たちにつれられて通ったことのある地方は、山・・・ 小川未明 「がん」
・・・孫の成長とともにすっかり老いこみ耄碌していた金助が、お君に五十銭貰い、孫の手を引っぱって千日前の楽天地へ都築文男一派の新派連鎖劇を見に行った帰り、日本橋一丁目の交叉点で恵美須町行きの電車に敷かれたのだった。救助網に撥ね飛ばされて危うく助かっ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・夏以来やもめ暮しの老いた父の消息も気がかりだった。まったく絶望的な惨めな気持だった。「ここは昔お寺のできなかった前は地獄谷といって、罪人の頸を刎ねる場所だったのだそうですね」と、私はこのごろある人に聞いて、なるほどそうした場所だったのか・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・人がもし壮年の時から老人の時まで、純然たる独身生活すなわち親子兄弟の関係からも離れてただ一人、今の社会に住むなら並み大抵の人は河田翁と同様の運命に陥りはせまいか、老いてますます富みかつ栄えるものだろうか。 翁の子敬太郎は翁とまるきり無関・・・ 国木田独歩 「二老人」
出典:青空文庫