立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねた・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・例えば先祖から持ち伝えた山を拓いて新らしい果樹園を造ろうとしたようなもので、その策は必ずしも無謀浅慮ではなかったが、ただ短兵急に功を急いで一時に根こそぎ老木を伐採したために不測の洪水を汎濫し、八方からの非難攻撃に包囲されて竟にアタラ九仭の功・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 中にも独り老木の梅が大事にする恩償として、今年も沢山花をつけて見せたが、目立つ枯枝にうたた憐憫の情を催おさざるを得なかったのであります。 小川未明 「春風遍し」
・・・僕はどうかするとあの仏殿の地蔵様の坐っている真下が頸を刎ねる場所で、そこで罪人がやられている光景が想像されたり、あの白槇の老木に浮ばれない罪人の人魂が燃えたりする幻覚に悩されたりするが、自分ながら神経がどうかしてる気がして怖くなる……」と、・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり南瓜が植えてあったり紫蘇があったりした。城の崖からは太い逞しい喬木や古い椿が緑の衝立を作っていて、井戸はその蔭に坐っていた。 大きな井桁、堂々とした石の組み様、がっしりしていて立派であった・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・われらみな樫の老木を楯にしてその陰にうずくまりぬ。四辺の家々より起こる叫び声、泣き声、遠かたに響く騒然たる物音、げにまれなる強震なり。 待てど二郎十蔵ともに出で来たらず、口々に宮本宮本、十蔵早く出でよと叫べども答えすらなし、人々は顔と顔・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・されど路傍なる梅の老木のみはますます栄えて年々、花咲き、うまき実を結べば、道ゆく旅客らはちぎりて食い、その渇きし喉をうるおしけり。されどたれありて、この梅をここにまきし少女のこの世にありしや否やを知らず。・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・ 私たちは松の老木が枝を蔓らせている遊園地を、そこここ捜してあるいた。そしてついに大きな家の一つの門をくぐって入っていった。昔しからの古い格を崩さないというような矜りをもっているらしい、もの堅いその家の二階の一室へ、私たちはやがて案内さ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・その辺も道太が十三四のころに住まったことのあるところで、川添いの閑静なところにあったそのころの家も、今はある料亭の別宅になっていたけれど、築地の外まで枝を蔓らしている三抱えもあるような梅の老木は、昔と少しも変わらなかった。 お京はちょう・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・現在は如何なる人の邸宅になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木と共に、あの庭の片隅に残って居るであろうと思う。 井戸の後は一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲を見るよう、冬でも夏でも真黒に静に立って居る杉の茂り・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫