・・・右の耳朶から頬にかけてぴしゃっと平手が命中した。私は泥のなかに両手をついた。とっさのうちに百姓の片脚をがぶと噛んだ。脚は固かった。路傍の白楊の杙であった。私は泥にうつぶして、いまこそおいおい声をたてて泣こう泣こうとあせったけれど、あわれ、一・・・ 太宰治 「逆行」
・・・そのような大へんな秘密を、高橋の呼吸が私の耳朶をくすぐって頗る弱ったほど、それほど近く顔を寄せて、こっそり教えて呉れましたが、高橋君は、もともと文学青年だったのです。六、七年まえのことでございますが、当時、信濃の山々、奥深くにたてこもって、・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私は自分の顔が真赤になるのを意識した。耳朶まで熱くなった。「知っていました。」と家内は、平気であった。「私が出て、お断りしようと思っていたのに、あなたが、拝見しましょうなんて言って、出てゆくんだもの。あなただけ優しくて、私ひとりが鬼婆み・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・朝の黄金の光が颯っと射し込み、庭園の桃花は、繚乱たり、鶯の百囀が耳朶をくすぐり、かなたには漢水の小波が朝日を受けて躍っている。「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、いちど見せたいなあ。」魚容は思わずそう言ってしまって、愕然とした。乃公は未・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ラプンツェルは婆さんの背中に飛びついて、婆さんの左の耳朶を、いやというほど噛んで放さないのでした。「ラプンツェルや、ゆるしておくれ。」と婆さんは、娘を可愛がって甘やかしていますから、ちっとも怒らず、無理に笑ってあやまりました。ラプンツェ・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・只その音が一本々々の毛が鳴って一束の音にかたまって耳朶に達するのは以前と異なる事はない。動くものは必ず鳴ると見えるに、蛇の毛は悉く動いているからその音も蛇の毛の数だけはある筈であるが――如何にも低い。前の世の耳語きを奈落の底から夢の間に伝え・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ぽうッとしかも白粉を吹いたような耳朶の愛らしさ。匂うがごとき揉上げは充血くなッた頬に乱れかかッている。袖は涙に濡れて、白茶地に牛房縞の裏柳葉色を曇らせている。島田髷はまったく根が抜け、藤紫のなまこの半掛けは脱れて、枕は不用もののように突き出・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
上 仙台の師団に居らしッた西田若子さんの御兄いさんが、今度戦地へ行らッしゃるので、新宿の停車場を御通過りなさるから、私も若子さんと御同伴に御見送に行って見ました。 寒い寒い朝、耳朶が千断れそうで、靴の裏が路上に凍着くのでした・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・ 政子さんは、少し耳朶を赤くしました。「それは遠慮だわ政子さん、一緒のお家にいて知らないなんて、そんな事は無くってよ。あの方は、小学校を優等でお出になったんですってね、そう? 津田さんが答辞をお読みに成ったって云っていらしったけれど・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・ 上気して耳朶を真赤にし「こめかみ」に蚯蚓の様な静脈を表わしてお金は、自分でも制御する事の出来ない様な勢で親子を攻撃した。「何ぼ私が酔狂だって、何時なおるか分らない様な病人の嫁さんに居てもらいたいんじゃありませんよ。若し、何と云・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫