・・・最後の一句は廊下に足音が聞えたから言ったのである。その足音はたしかに硝子戸に近づいて来る。オオビュルナンは覚えず居ずまいを直して、蹙めた顔を元に戻した。ちょうど世話物の三幕目でいざと云う場になる前に、色男の役をする俳優が身繕いをすると云う体・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・(右の方に向き、耳を聳何だか年頃聞きたく思っても聞かれなかった調ででもあるように、身に沁みて聞える。限なき悔のようにもあり、限なき希望のようにもある。この古家の静かな壁の中から、己れ自身の生涯が浄められて流れ出るような心持がする。譬えば母と・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・爰は木曾第一の難処と聞えたる鳥井峠の麓で名物蕨餅を売っておる処である。余はそこの大きな茶店に休んだ。茶店の女主人と見えるのは年頃卅ばかりで勿論眉を剃っておるがしんから色の白い女であった。この店の前に馬が一匹繋いであった。余は女主人に向いて鳥・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ 霧の粒はだんだん小さく小さくなって、いまはもう、うすい乳いろのけむりに変わり、草や木の水を吸いあげる音は、あっちにもこっちにも忙しく聞こえだしました。さすがの歩哨もとうとうねむさにふらっとします。 二疋の蟻の子供らが、手をひいて、・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・彼等も今晩は少しいつもと異った心持らしく低声で話し、間に箸の音が聞えた。 陽子はコーンビーフの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせたり畳の上に下したり、力を入れ己れの食いものの為に骨を折っているうちに陽子は悲しく自分・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・とささやく声が聞えた。それは殿様がお隠れになった当日から一昨日までに殉死した家臣が十余人あって、中にも一昨日は八人一時に切腹し、昨日も一人切腹したので、家中誰一人殉死のことを思わずにいるものはなかったからである。二羽の鷹はどういう手ぬかりで・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・錠を卸すきしめきが聞えた。 ツァウォツキイはぼんやり戸の外に立っている。刹那に発した怒りは刹那に消え去って、ツァウォツキイはもう我子を打ったことをひどく恥ずかしく思っている。 ツァウォツキイは間の悪げにあたりを見廻した。そして小刀で・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「浮評に聞える御社はあのことでおじゃるか。見れば太う小さなものじゃ」「あの傍じゃ、おれが、誰やらん逞ましき、敵の大将の手に衝き入ッて騎馬を三人打ち取ッたのは。その大将め、はるか対方に栗毛の逸物に騎ッてひかえてあったが、おれの働きを心・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・何処かの酒庫からは酒桶の輪を叩く音が聞えていた。その日婦人はまた旅へ出ていった。「いろいろどうもありがとうこざいまして。」 彼女は女の子の手を持って灸の母に礼をいった。「では御気嫌よろしく。」 赤い着物の女の子は俥の幌の中へ・・・ 横光利一 「赤い着物」
このデネマルクという国は実に美しい。言語には晴々しい北国の音響があって、異様に聞える。人種も異様である。驚く程純血で、髪の毛は苧のような色か、または黄金色に光り、肌は雪のように白く、体は鞭のようにすらりとしている。それに海・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫